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横浜スタジアムとは?
横浜大洋ホエールズ、横浜ベイスターズの本拠地球場。1978(昭和53)年、嘗ての横浜公園平和野球場跡に建設された。都心型の球場として横浜市内でも交通至便の場所にあり、この点でのファンの評価は高い。
建設当初はライオンズ球場と匹敵する大型球場だった。いちおう野球場ではあるが、実はアメフトや屋外コンサートが開催されることを当初から想定して創設された、いわば「多目的型スタジアム」の魁でもある。フィールド面は創設当時から全面人工芝を使用。このような仕様も全国初であった。なお、2003(平成14)年からはフィールドターフに張り替えられている。
しかし近年の球場大型化に伴い、専用球場としては最も狭い球場になってしまった上、横浜アリーナや国際総合競技場の開業により、屋外コンサートもあまり行われていない。ただしTUBEのライブは毎年恒例行事となっている。どんぶりを傾けたような外観、横浜のYの文字をかたどった照明塔など、特徴ある外観が印象的な球場である。横浜ベイスターズの本拠地としてのみならず、「全国一レベルが高い」と言われる高校野球神奈川県大会決勝戦が行われる球場として、高校野球ファンの隠れた名所ともなっている。
公園法や日照権の問題がネックとなり、立替等の計画は現在のところなく、また横浜ドーム構想も凍結されたままであることから、今後もベイスターズの本拠地としての役割を担っていくことになると思われる。
Stadium Data
所在地 〒231-0022 神奈川県横浜市中区横浜公園 マップ
右翼 94.2m
右中間 111.4m
中堅 117.7m
左中間 111.4m
左翼 94.2m
外野フェンス 5.0m~5.3m
面積 内外野人工芝
フィールド面 13,000㎡
照明塔 6基
照度 バッテリー:2,500lxs、内野:2,000lxs、外野:1,650lxs
観客動員数 30,000人(内野:24,000人、外野:6,000人)
Stadium History
前史:平和球場
横浜スタジアムの建設は1978(昭和53)年だが、その起源は古く、開国間もない1874(明治7)年に遡る。当時、英国で盛んだったクリケットグラウンドが横浜に建設された。これが現在の横浜スタジアムの淵源である。横浜公園はかつて彼我公園と呼ばれ、このグラウンドで旧制一高(現在の東大教養学部)-地元外国人チームの親善試合が行われたこともあった。日本を代表する港町らしいエピソードである。
その後、1929(昭和4)年、関東大震災復興事業の一環として横浜公園に横浜公園球場が開場。34(昭和8)年にはベーブルースやルー・ゲーリッグらからなるメジャー選抜と、沢村栄治らを擁する日本選抜が親善試合を行っている。
戦後、米軍に接収され、「ルー・ゲーリック球場(又は横浜ゲーリック球場)」と改名された。この間、日本初のナイターも行われた。接収は52(昭和27)年に解除され、その後55(昭和30)年、横浜公園平和野球場と改称された。戦後の厭戦気分を象徴するネーミングであると言える。54(昭和29)年には巨人の2軍ことジュニアジャイアンツの本拠地ともなった。なお、同時期には阪神2軍こと阪神ジャガーズは神戸球場を本拠地としており、巨人・阪神の各2軍が東西の港町に陣取っていたことになる。
しかしこの頃から老朽化が目立ち始め、プロ興行はおろかアマチュア野球でも使用できない状況となり、立替が必要になってきた。その後、平和球場は77(昭和52)年、横浜スタジアムの着工により閉鎖された。

横浜スタジアム開場
横浜では平和球場の立替の要望とプロ野球チーム誘致運動が市民レベルでも盛り上がってきた。72(昭和47)年11月には、当時川崎球場を本拠地としていた大洋ホエールズが正式に移転を申し入れる。しかし当時の横浜市には新球場を建設できる敷地がなかったため、横浜新球場構想は平和球場の建て替えという構想で進むことになった。これらの動きには、当時の横浜市長だった飛鳥田一雄(のち日本社会党委員長)の貢献が大きい。工事は77(昭和47)年4月1日から始められ、超突貫工事の末、1年という短期間で平和球場取り壊しから新球場・横浜スタジアムまでの工程をやり遂げた。?落としは78(昭和53)年4月3日の大洋-巨人戦。始球式は開場直前に市長を退任していた飛鳥田前市長が務めた。

大洋ホエールズ移転、横浜ベイスターズ日本一
横浜スタジアムは当初から大洋ホエールズの本拠地となることを目的として建設された球場だったが、当時ロッテオリオンズも横浜移転を目指していたと言われる。これは東京オリオンズの本拠地だった東京スタジアムが閉鎖されたことにより、ロッテ本拠地が宮城県営球場に割り振られたことによるものだった。当時の交通事情を考えればまだ仙台に本拠地を置くことには無理があったため、ロッテは主催試合の殆どを地方開催しなければならないという「ジプシー・ロッテ」状態だった。しかし実際は、ロッテは大洋の元本拠地、川崎球場を本拠地とすることになる(東京スタジアム及び川崎球場については、千葉マリンスタジアム前史参照)。
85(昭和60)年には高木、加藤博一、屋鋪のスーパーカートリオが結成され、87年には阪神バースに代わる本塁打王「スーパーマリオ」ことポンセが活躍した。当時のポンセの応援歌には「打て、場外へ!」という歌詞があったが、一部の自虐的なファンは「打ってちょうだいね」と歌っていたという逸話もある。しかしチームはBクラスの常連であり、「弱い」ことを自虐ネタとして使うファンも多かった。
93(平成5)年、チームはより横浜に地域密着したチームカラーを目指し、球団名からオーナー企業名を排除した「横浜ベイスターズ」に改称。オーナー企業名を名乗るのが当たり前の時代にあって、極めて画期的な改革だった。同時期にはアイドルグループCoCoがイメージソング「横浜BoyStyle」をリリースしており、都会的イメージの確立に貢献している。CoCoが既に解散した現在も、この歌は球場で演奏されることがあるという。
98(平成10)年、権藤監督の下、大魔神佐々木や金城、波留、ローズ、谷繁らのマシンガン打線が爆発、ベイスターズは大洋以来38年ぶりリーグ優勝、日本シリーズでもライオンズを下し日本一となった。

その後の横浜スタジアム
2001(平成13)年末、ベイスターズのオーナーは水産業者からテレビ局に交代した。当初はラジオ放送局がオーナーとなる予定だったが、スワローズ株主と同一のグループ企業だったため、渡辺恒雄の干渉により頓挫、代わってテレビ局が引き取る形で決着した。しかしこのテレビ局は球団運営に熱意を持っておらず、一方で亀田親子を増長させボクシング会を愚弄するなど、スポーツ運営の適性があるとは到底言えない企業である。実際、21世紀以降、ベイスターズはAクラス入りが僅か2回、そのうち1回はシステムに救われたものだった。2011年現在、チームの低迷はいまだ続いている。
その一方、球場運営はフィールドターフの導入や内野フェンスの引き下げなど、改良が進んでいる。この状態では、かつて神戸にあったが現在は消滅したチームと同じ運命をたどるかもしれない。一日も早くもっと球団運営に熱意のある企業に球団が譲渡されることを望みたい。もちろん、どこぞの合併球団オーナー企業の悪徳ノンバンクがごとき、自社宣伝だけが目的の企業など論外である。
MIDIデータ
「桜木町」/ ゆず
作詞:北川悠仁  / 作曲:北川悠仁 / 編曲:松任谷正隆
データ制作:りさぴょん
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