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東京ドームとは?
ジャイアンツのホーム球場であると同時に、2003(平成15)年まではファイターズのホーム球場でもあり、 近年ではパリーグの数球団が「参勤交代」して主催試合を開催するなど、日本プロ野球の中心的存在である。 1937(昭和12)年、前期イーグルス(その後黒鷲、大和と改称、のち消滅。なおクロワシとイヌワシは動物分類学上、全くの同種である) の本拠地として後楽園球場が開場。 後楽園開業60年となる88(昭和63)年に日本初のドーム型多目的ホールとして東京ドームがオープンした。 尤も、この時期には東京ディズニーランドの開場も重なっており、エンターテイメント施設の建設ラッシュという事情もあったようである。
日本初の全天候型エアドームで、構造はメトロドーム(米国ミネソタ州ミネアポリス)をモデルとしたエアドーム方式であり、内部の気圧によって屋根を支えている。 しかしその状態を維持するためにかなりのコストがかかるため、常に何かイベントを開催しないと赤字になるらしい。
更にその優れた空調機能のためか、「巨人攻撃の際には内野から外野方向へひそかに風を送っているらしい」というドームラン疑惑が跡を絶たない(笑)。

建築面積は46.755平方m、収容人数は、55,000人(野球時)となっているが、東京消防庁に届けられた実数とはかなり違っているようだ。 しかも巨人戦ともなると超満員となることが多いため、通路に座り込む客が続出して、ろくに移動もできない。たぶん球場内でパニックが起きたら数千人が犠牲になるのではないかと思う。 時節柄、球場の危機管理には注意してほしいものである。
フィールドは両翼100m、最深部122mと他のドーム球場と変わらないが、外野の膨らみがないため、やや狭く感じ、 フィールドの形状は嘗て北千住に有った「光のスタジアム」こと東京スタジアムと似ているかもしれない。 (東京スタジアムについては千葉マリンスタジアム前史を参照されたい)。
とは言え、全体的なデザインは旧後楽園を受け継いでおり、外野フェンスも意外と低く、ドームとしては珍しく昔ながらの球場の風情が漂う造りとなっている。
フィールドの人工芝は、ドームとしてはいち早くフィールドターフ(ハイテク人工芝)を採用している。 草の部分のパイルと呼ばれる中に充墳材(ゴムチップと珪砂etc)を敷き詰めたものである。そのため非常に体に優しいと言われている。 現に、“銀河系軍団”レアル・マドリードがFC東京戦の公開練習の際に東京ドームを使っているなど、サッカーの試合が出来るほど質が高い一品である。 管理人も大阪ドームの係員時代にジェット風船の拾い集めで旧式人工芝とフィールドターフを踏み比べてその違いを肌で実感したことがあるが、 旧式はスニーカーでも下にコンクリートがあることがわかるほど固いのに対し、フィールドターフは柔らかく非常に走りやすい。 これを早くから導入した東京ドームの姿勢は評価できる。もっとも、その真意は人工芝を嫌っていた松井選手の引止め策であったらしいのだが… 法外な長期契約と引止めの為にフィールドターフで引き止めるぐらいならセーフィコフィールドみたいに開閉式の天然芝球場で勝負する方がまだマシである。

ところで、実は東京ドームは「競輪場」でもある。 これは旧後楽園の隣に後楽園競輪場があったことを踏襲したもので (後楽園競輪はかの悪名高き美濃部革新バラマキ都政時代、公営ギャンブル廃止政策の一環として停止された)、 現在でも簡単な操作で競輪用バンクが飛び出す仕組みを装備しているのだが、今では殆ど使用されていない。近年、石原慎太郎都知事が都財政再建策の一環として「後楽園競輪(名称としては「東京ドーム競輪」になるであろうが)」復活を目指しているが、 地元の文京区の反対が根強く、実現に至っていない。 しかしギャンブルとしてはともかく (別に管理人は合法ギャンブルにケチを付ける気はないが、当サイトは18禁でもR15指定でもないので、この問題については割愛する)、 スポーツとして競輪を観戦するのは結構面白いものである。管理人の私見としては、一刻も早い実現を望みたい。
Stadium Data
所在地 〒112-0004 東京都文京区後楽1-3-61 マップ
右翼 100.0m
右中間 112.0m
中堅 122.0m
左中間 112.0m
左翼 100.0m
外野フェンス 4.24m
面積 13.000㎡
フィールド面 内外野人工芝
照明灯 14基
照度 投捕間:2700lxs、内野:2000lxs、外野:1650lxs
観客動員数 46,314人
Stadium History
前史:後楽園球場、駒沢球場
後楽園球場
現在の東京ドームは旧後楽園球場の機能を継承する形で創設されたため、やはり後楽園について触れなければならない。
戦前期、東京市内でのメインスタジアムといえば神宮球場だったが、神域という立場上プロ興行は認められていなかった。東京での初の公式戦は36(昭和11)年7月1日の東京巨人軍対名古屋軍だったが、これは早稲田大学戸塚球場で行われている。このため、東京でプロ野球のメイン会場となるべき球場の必要性が叫ばれていた。
そこで、小林一三、正力松太郎らの出資により株式会社後楽園スタヂアム(現在の株式会社東京ドーム)が創設され、小石川後楽園に隣接する国有地の払い下げを受けて後楽園球場が創設された。
開業当初前期イーグルスがここを本拠地としたが、40年代からは巨人のメインスタジアムとなる。戦争中はここも甲子園同様、食糧増産のためイモ畑になっていたという記録もある。
戦後、米軍に接収されるが数日で解除、その後も東京のメインスタジアムとして戦前戦後を通じて延べ7球団が後楽園を本拠地とした。以降、巨人のホームスタジアムとして巨人第2期黄金時代やV9時代の舞台となり、川上、青田、千葉、別所、長島、王、金田、原といった名選手を輩出した。東映フライヤーズは64(昭和39)年に神宮から後楽園に戻り、張本が首位打者を獲得し、木田勇がデビュー早々MVPに選ばれたこともあった。81(昭和56)年の日本シリーズは、ともに後楽園を本拠地とする両球団が対決し、後楽園シリーズと呼ばれた。
球場としては狭かった上に外野方向が下に傾いた形だったため、ホームランの出やすい球場と言われていた。このことは江本孟紀氏もネタにしている。
87(昭和62)年、東京ドームの完成を期に閉鎖。さよならイベントは盛大に行われ、武田鉄矢が後楽園のために作曲したオリジナル曲を披露して最期を惜しんだ。なお、『キン肉マンⅡ世』では閉鎖直前の後楽園で初代キン肉マンとテリーマンのプライベートマッチが行われたというエピソードが存在するが、これは『初代キン肉マン』の連載終了期と後楽園の閉鎖時期が重なったことによるパロディーである。
跡地は現在も株式会社東京ドームの所有であり、東京ドームホテルなど東京ドームの関連施設となっている。
砲兵工廠(後楽園球場)跡地
丁度、東京ドームホテルとプリズムホールの辺りが当時の後楽園球場の敷地内となっている。そして更に遡ると砲兵工場まで遡る。『球団と球場は1つでなければならない』今では当たり前のフランチャイズ制を目標にしていた前期イーグルスの本拠地でもあり、ON時代や疑惑のHR騒動など数知れない歴史がここには詰まっている。

駒沢球場
かつて東映(建設当時は東急)フライヤーズが本拠地としていた球場。もとはゴルフ場で、のち40(昭和15)年に予定されていた「幻の東京オリンピック」のメイン会場となる予定だった場所に、東急電鉄が自費で建設。開場は53(昭和28)年9月21日で、翌年東急から変わった東映フライヤーズ本拠地となった。なお、東急と東映は同系列企業であり、管理権が委譲されただけであって、いわゆる「身売り」ではない。
当初は周辺環境も整備されておらず、観客より関係者のほうが多いということもあったが、「駒沢の暴れん坊」といわれた東映選手が活躍するようになると観客も増えていった。アマチュア野球においても、東都大学リーグなどの使用記録が残る。
61(昭和36)年、東京オリンピック会場として再整備されることが決まり、東京都に接収されて歴史の幕を閉じた。これに伴い、東映・ファイターズは神宮球場に移転、その後後楽園に移転し、東京ドームを経て04(平成16)年に札幌ドームに移転した。
跡地は駒沢オリンピック公園として整備されている。なお、公園内の球場は当時の駒沢球場とは別の位置にある。
(上左)駒沢オリンピック公園に隣接する駒澤大学正門。中畑の母校としても名高い。国道246号線沿いには駒大ロースクールの校舎もある。
(上右)駒沢公園内の記念碑。
(下)現在の球場の様子。公園管理事務所にも旧球場に関する資料や記録は残っていなかった。なお、旧球場があったのは現在の第2球技場のあたりらしい。

日本初のドーム球場
後楽園球場の代替球場として、株式会社後楽園スタヂアムが86(昭和61)年に建設開始。当時米国ではドーム球場の建設が盛んに行われており、これに習い日本初のドーム型多目的ホールとして建設が始まった。建設場所は嘗て後楽園競輪場(美濃部亮吉都知事により、72(昭和47)年3月廃止)で、当時はプール兼ゴルフ場となっていた場所である。エアドーム方式が採用されたこともあり、真っ先にスタンド部分から建築を始めるという特殊な工法が用いられた。翌年には大部分が完成し、巨人戦中継では後楽園球場の隣に建設される東京ドームの様子を航空写真で映し出すのがひとつの風物詩となっていた。

88(昭和63)年3月18日に開場し、?落としとして巨人阪神オープン戦が行われた。翌19日、20日にはTHE ALFEEとマーチングバンドの合同コンサート、21日はマイク・タイソンのタイトル防衛戦と、華やかなセレモニーで幕を開けた。同年の公式戦から正式に日ハム、巨人の本拠地となり、後楽園に代わるセパ両リーグの中心地となった(後、ファイターズは札幌に移転)。4月11日には美空ひばりの不死鳥コンサートも開催されている。
両翼100m、中堅122mという国際規格球場は全国でもGS神戸に続き2番目であり、全天候型で天気にも左右されないという球場のスタイルとあいまって後の球場建設に大きな影響を及ぼした。
7月にはオールスター第3戦が開催され、正田耕三がMVPを獲得した。

平成巨人、V2
89(昭和64・平成元)年、元号が改まったこの年、巨人はセリーグを制覇、日本シリーズでバファローズと対戦する。藤井寺、東京ドームでの3連敗後、4戦目で初白星、翌5戦目で原が満塁アーチを放ち、これをきっかけに形勢が逆転し、東京ドーム初の日本シリーズを日本一で決めた(第7戦は藤井寺。ちなみに藤井寺唯一の日本シリーズだった)。翌年も優勝し、「2連覇はない」と言われたセリーグで80(昭和55)年広島カープ以来のV2を達成する。しかし日本シリーズでは「阪神以外に負けたことのない」ライオンズと対戦し敗れた。
同時期、ファイターズは大沢監督のもとチーム力が向上し、90(平成2)年には優勝をうかがうまでに上り詰めたが優勝までには至らなかった。大沢監督は「野茂に敗れた」と当時の状況を分析している。

メイクドラマ
93(平成5)年に再び巨人監督に就任した長島監督は、95(平成7)年「メイクドラマ」を合言葉に黄金期の再来を目指す。そして翌96(平成6)年、首位との最大11.5ゲーム差を跳ね返し、優勝を手にした。当時の巨人は現在ほどFA権の濫用で選手をかき集めるようなことはしておらず、主力選手は落合以外ほとんど生え抜きだった。松井、仁志、清水、川相らが選手の中心であり、当時の選手層の厚さがうかがえる。またこの頃から選手内でも若返りが始まっていく。長年巨人を支えた原が95(平成7)年限りで引退、生え抜きの松井、元木らを中心とするチームに生まれ変わっていった。
しかしリーグ優勝は野村監督率いるスワローズやマシンガン打線と大魔神佐々木を擁する横浜にさらわれることが多く、チーム力は低迷していた。そのような中でも、20世紀最後は巨人が優勝で飾り、王監督率いる福岡ホークスとの「ON対決」も実現した。

松井移籍、そしてファイターズ東京を去る
監督退任後、原新監督は1年目で優勝を飾る。しかし02(平成14)年オフ、松井は球団の引止めを振り切りFA権を行使してNYヤンキースに移籍、原は翌年限りで球団フロントへ「異動」となった。巨人の球団としての体制がいかに病理を抱えているかを如実にあらわした事件である。
一方、「同居人」だったファイターズにも動きが出てくる。上田監督の下「ビッグバン打線」として恐れられていながら、監督の家族問題で栄冠から遠ざかっていたファイターズは大島監督のもとでも長く低迷していたが、打開策として東京から札幌への移転を計画、ライオンズとの調整を経て04(平成16)年、札幌へと移転していった。


現在のジャイアンツ、そして東京ドーム
巨人は07(平成19)年から3連覇を達成し、いまや黄金時代である。しかしそれを支えているのはFA権の濫用で有力選手をかき集め、自前で選手を育てることを忘れた結果でもある。こうした姿勢は巨人ファンの反発も招いていることを忘れてはならない事実である。こうした巨人の横暴はいまだとどまるところを知らず、セリーグの球団格差を生み出す元凶となっている。巨人が現在のような体質を改めない限り、今後も同じ状況が続くだろう。
一方、東京ドームも02(平成14)年に暴対法指定暴力団住吉会への利益供与が問題とされ、逮捕者が出る騒ぎとなった。その後東京ドームは暴力団排除に徹底的に取り組んでおり、その姿勢は評価できる。
近年はフィールドシートも設けられ、施設としての東京ドームは改善されつつある。
今後、東京ドームが日本プロ野球の中心地としての機能をどのように果たしてゆくのかに注目したい。
MIDIデータ
「Star Wars 帝国の逆襲」
音楽:John Williams
データ製作:shikato
【The Permission Denied】http://hello.to/shikato/
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