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札幌ドームとは?
北海道ファイターズの本拠地球場であると同時に、J2コンサドーレ札幌の本拠地でもあり、マスターズリーグ札幌アンビシャスの本拠地でもある道内の中心的スポーツ施設。日本にある6ドーム球場のうちでは最も北に位置する。農林水産省試験場跡地に2001(平成13)年開業。開業当初から「Hiroba」という愛称も付けられているがあまり定着していない。
もともとサッカーワールドカップ札幌会場として建設されたため、開場当初からコンサドーレ札幌の本拠地として使用されていた。その後、03(平成15)年からライオンズ(現埼玉ライオンズ)準本拠地となる予定だったが、04(平成16)年シーズン当初より北海道ファイターズ本拠地として使用されている。
普段はクローズドエリア内に人工芝によるフィールドが敷設されているが、オープンエリアでは天然芝のフィールドが養生され、ホバリングシステムにより場内に引き入れサッカー場にチェンジすることが可能。常時野球場とサッカー場の転換が利く大型フィールドは日本で唯一である(過去に大阪球場や甲子園でサッカーやラグビーが開催されたこともあるが、これは常設ではない)。しかしそのシステムが仇となり、フィールドターフが敷設できない構造となっており、野球場としては選手の負担が大きい球場でもある。
野球場やサッカー場以外でもノルディックスキークロスカントリー競技場、F1ラリージャパン会場として使用され、スポーツ施設してはおそらく日本で最も汎用性が高い。2019(平成31)年ワールドカップラグビー日本大会の札幌会場となることも内定している。
ナイター設備の設置されていない道内の野球場にあって初めて本格的なナイター設備が設置された野球場でもあり、「昼間は野球場でデーゲーム、夜は自宅でナイター」という道民のライフスタイルを大きく転換させた功績は大きい。
Stadium Data
所在地 北海道札幌市豊平区羊ヶ丘1 マップ
右翼 100m
右中間 116m
中堅 122m
左中間 116m
左翼 100m
外野フェンス 5.75m
面積 14,460u
フィールド面 内外野人工芝(旧式)
照明塔
照度
観客動員数 53,845人(固定客席数40,476席(野球)、41,484席(サッカー))
Stadium History
前史:共和事件
札幌ドームについて記述する前に、まず「ホワイトドーム計画」について少し触れておこう。
札幌市は1980年代末、白石区東札幌付近(現在の札幌コンベンションセンター付近)にドーム建設を計画。当時の阿部文男衆議院議員兼北海道沖縄開発庁長官が中心となり、開発が進められた。
阿部議員は北海道の有力代議士として当選7回を数え、89(平成1)年には海部内閣で国務大臣として入閣。自民党の勢力が弱いと言われる北海道では異色の存在であった。派閥としては宮澤(喜一)派に属しながら、宮澤のライバル田中六助に接近するなど狡猾な面もあった。
(舛添要一氏は北海道の自民党について「東京の社会党ぐらい弱い」と発言している)。
ところが92(平成4)年、阿部議員がホワイトドーム建設及び北海道のリゾート開発に絡み、鉄骨製造会社「共和」から工事発注斡旋の引き換えに利益供与を受けていたとして受託収賄罪容疑で逮捕され、計画は立ち消えとなった。阿部議員は一審で有罪判決、控訴審も棄却され、00(平成12)年に最高裁で上告棄却決定。これにより懲役3年の有罪判決が確定したが、高齢と病気のため服役せず、06(平成18)年12月に死去している。
最高裁では受託収賄罪(刑法197条1項)にいう「職務」の定義について争われたが、「一般的職務」であれば「職務」と言える、というのが最高裁の立場であり、阿部議員が札幌市に対し特定企業に発注することを斡旋することも「職務」に該当するとした。
(最高裁決定平成12年3月22日。なお、「一般的職務」について定義したのは、平成7年のロッキード事件最高裁大法廷判決であり、判決理由では「その権限行使が合法か違法かは問題とならない」としている。共和事件判決についての詳細はここで記述することは出来ないが、詳しくは「法学教室241号160ページ(有斐閣刊)」、または「最高裁判所判例解説集刑事編平成12年版76ページ(法曹会刊)」を参照されたい。)
ところで、ブレーブスが西宮撤退に際し、新本拠地候補として挙げたのが、神戸のほか、千葉、そして札幌である。しかし千葉についてはオリオンズが先鞭をつけていたため実現せず、札幌も先述のとおりの事情があったため頓挫、結局神戸に移転が決まった。それから僅か20年足らずで神戸移転は「失敗」という幕引きに終わったのは、ご存知のとおりである。

FIFAワールドカップ
阿部議員の逮捕により一旦は頓挫したドーム建設計画だったが、同年、FIFAワールドカップ開催予定地として札幌市が立候補し、再びドーム計画が浮上する。構造は旧ホワイトドーム計画同様、全天候型多目的ホールとし、野球場のほかサッカースタジアムとしても利用できるよう天然芝の屋外養生システムが整えられることになった。こうして98(平成10)年着工、01(平成13)年6月3日、札幌ドームが誕生、同年のオールスターも行われ、02(平成14)年3月には6都市同時開幕の一環(札幌、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)としてライオンズ開幕試合(対マリーンズ戦)もここで行われた。これに先立ち、Jリーグのコンサドーレ札幌が01(平成13)年から札幌ドームを本拠地としている。
2002(平成14)年FIFAワールドカップではイングランド−アルゼンチンという「サッカー強豪国同士にしてフォークランド紛争以来の遺恨試合」が札幌で行われ、北海道警察本部が「フーリガンの来襲」に備えて厳戒態勢を敷くという異常事態になった。尤も、心配されたような襲来はなく、日本の治安体制の高水準ぶりを世界に示すことにもなったという。
なお、イングランド代表ベッカムは、札幌ドームのピッチについて「世界最高」と絶賛している。このほか、ドイツ、イタリアという強豪国がここでプレーし、ドイツ代表GKオリバー・カーンがサウジ戦でゴールを守りきり、完封試合を演じている。
札幌ドーム西ゲート付近のメモリアルギャラリーには、FIFAワールドカップやコンサドーレ札幌の記念品も展示されている。いずれはラグビーワールドカップの記念品も展示されるだろう。

ファイターズとライオンズ
ライオンズは02(平成14)年の主催試合のうち、札幌で5試合の開催を計画し、03(平成15)年からは札幌準フランチャイズ化を目指していたが、ここで突如、札幌の主導権を巡って紛争が勃発する。セネタース・フライヤーズ時代から東京を本拠地とし、東京ドームでジャイアンツの「同居人」でもあったファイターズが「札幌ドーム移転計画」を発表したのである。これには当然ながらライオンズが反発、ファイターズファンのみならず全国野球ファンの間で大論争を巻き起こすことになった。

賛成派は「東京では最も存在感の薄いファイターズが地方に移転し、地域密着を進めるのは良いこと」「これまでプロ野球と縁の薄かった地域にも野球文化を広めることになる」「(地元民として)ぜひ来てほしい。」
反対派は「情報の発信地たる東京でパリーグの球団がなくなることはリーグにとってマイナス」「気象条件が悪すぎる」「全国一巨人ファンが多いといわれる北海道でパリーグ球団が受け入れられる筈がない」等々の議論が行われたが、ある意味水掛け論のような様相も呈していた。
この頃、ファイターズ応援団は「札幌移転断固反対」の横断幕を掲げて応援を続けたが、実際にこのような態度が合併騒動当時のバファローズファンほどに全ファンの支持を受けていたとは言い難い。事実、この当時行われた「野球のために鐘はなる」のアンケートコーナー「野球大陪審」では、移転賛成派が多数を占めている。
結局、移転騒動はライオンズが折れ、ジャイアンツオーナーの渡辺が移転支持を表明したこともあって04(平成16)年から移転することが決定、ただしファイターズ2軍本拠地は関東に置くこと、年10試合程度は東京で主催することとされた。
ファイターズの札幌移転について、なぜ渡辺・堤が支持したのか?実はこれには両者の思惑の一致があった。渡辺は「ファイターズを札幌へ移転させ、本州内の球団を削減することで1リーグ制移行」という謀略を企んでいたのである。いわば移転騒動は、04年の合併騒動へと繋がる伏線であったといえる。

この騒動に対する批判はもう一人の当事者である札幌市にも向けられた。札幌市は当初、ライオンズの準フランチャイズ計画を歓迎する態度を取っていたが、実はその背後でファイターズとも交渉していたことが明らかになったのである。このような札幌市の態度は「二枚舌」「泥縄」と激しく非難されることになったが、当然であろう。

「実験」の成果とその後の影響
それまで気象条件から「球団誘致は不可能」とされてきた札幌に地元球団が誕生したことは、土木建築技術の向上という事情に負うところが大きいものの、画期的なことであり、「太平洋岸地域の文化」でしかなかったプロ野球に「太平洋岸地域以外でも球団を置くことは可能」というひとつの答えを示すものともなった。後に東北イーグルスが仙台に本拠地を置き、新潟や金沢が新球団創設を目指すことになったのも、札幌での「実験」がいかに後世に影響を与えたかを物語る。
一方で、札幌ドームの完成は、野球を見る観客の行動にも影響を与える。北海道で野球文化の中心といえば、それまでは円山球場であったが、円山には照明設備がなく、そのため北海道では「ナイター観戦」という習慣が存在しなかったのである。02(平成14)年6月のジャイアンツ札幌シリーズが平日でありながらデーゲームとして行われたのはこのためだが、「平日のデーゲーム観戦などよほどのヒマ人でなければ無理」という非難を浴びることとなる。尤もこのような非難は円山時代に言われたことはなく、「これからはナイター観戦も可能になる」という道民の期待の裏返しであったと見ることもできよう。
円山球場スコアボードとグラウンド。照明塔がないのがお分かりだろうか。北海道は日が短く夜は冷え込むという気象条件のため、ナイター設備のない球場が殆どである。厚別球場では移動式照明車を利用したという記録もある。

新庄入団、合併騒動、そして栄光へ
ファイターズの札幌ドーム移転が決まると札幌市でもこれを迎え入れる準備が整えられていく。まず巨人ファンとして有名だった桂信雄札幌市長(当時)が「これからはファイターズファンになります」と「脱G宣言」、行政が一体となり北海道ファイターズを支える決意を示した。更に北海道電力やサッポロビールなど、札幌に本社を置き、または起源とする企業も続々と支持を表明するなど、経済界も地元球団誕生を歓迎した。(ただし桂市長は03(平成15)年の統一地方選挙に出馬せず引退、04(平成16)年の「北海道ファイターズ誕生」を見届けたのは次期市長の上田文雄であった。)
04(平成16)年には阪神タイガースからメジャーに移籍後、NYメッツ、SFジャイアンツでプレーした新庄が北海道ファイターズに入団、エキセントリックな言動とド派手なパフォーマンスでファンの心を掴み(新庄のパフォーマンスについては「本来野球選手とはプレーで魅せるものであり、パフォーマンスで目立つのは邪道」という主に年配者からの批判もある)、更に東京時代からの「イチロー去りし後の12球団最強バッター」小笠原や、「在日の星」森本らスター選手が活躍、ファイターズ初の外国人監督ヒルマンなどが人気を集め、移転初年度から千葉マリーンズと「プレーオフ最後の1議席」を巡って熾烈な争いを繰り広げ、札幌でのファンは次第に増えていった。04(平成16)年9月、ブルーウェーブ−バファローズ合併騒動に絡むプロ野球初のスト明けに行われた試合では、新庄・森本ら5人の北海道ファイターズ選手が「秘密戦隊ゴレンジャー」のマスクを被って登場し、ストで沈滞したファンを大いに沸かせている。
同年のドラフトでは東北高校のエース、ダルビッシュ有が入団。選手としての才能のみならず普段の言動や素行でも注目を集めた。尤も、05(平成17)年のファイターズは小笠原の不振が響き、更にこの年のパリーグ各チームは、マリーンズとホークス以外目も当てられない散々たる戦績を残したため、5位に低迷した。
06(平成18)年10月12日、北海道ファイターズはプレーオフで福岡ホークスのエース斎藤を打ち崩し、実に25年ぶりのリーグ優勝、26日には「オレ竜」ドラゴンズを倒して東映時代から44年ぶりの日本一も成し遂げた(04(平成16)年のプレーオフ導入以来、レギュラーシーズン1位チームがプレーオフでも優勝するのはこれが初めてであった。なお、07(平成19)年にもファイターズはレギュラーシーズン1位、クライマックスシリーズでも優勝しており、規約改悪の影響とはいえ2重の意味で優勝している)。

地域密着未だ成らず―その後のファイターズと札幌ドーム
しかし06(平成18)年オフ、再び北海道ファイターズに激震が走る。それまで「チームの顔」として活躍してきた小笠原がFAにより巨人に移籍。小笠原は札幌に単身赴任の身の上であり、生活基盤を東京に置いていたため、家族の意向もあって東京に帰ることを選んだのである。もちろんFA権行使自体は選手の正当な権利行使行為だから責められるべきものではないのだが、小笠原の移籍は未だ「東京ノスタルジー」が主力選手に残っていることを物語るものであり、「北海道ファイターズの地域密着は未だ完成していない」ことを示す皮肉なものであったといえよう。

今後の展望
ところで、北海道ファイターズについては「04(平成16)年の合併騒動で唯一影響のなかった球団」であると評価されることが多い。しかし当時、球団社長は「将来的には合併もありうる」と発言しており、全く影響がなかったというのは過大評価であろう。
「地域密着型球団運営」モデルがどこまで成功するのか。その答えは、北海道ファイターズの今後の運営がどのようなものとなるか、また北海道及び道民が如何に魅力ある市場としての札幌ドームをアピールできるかに掛かっていると言って良いだろう。
MIDIデータ
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