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神宮球場とは?
東京スワローズのホーム球場。甲子園が高校球児の聖地とされているのに対し、 こちらは大学野球の中心地であり、登録上は明治神宮境内となっているため、名実ともに「聖地」である。登記上の所有者も明治神宮とされており、宗教法人がプロ野球に球場を提供する唯一の例である。
竣工は26年(大正15年)の10月、東京六大学野球関係者の要望により、明治神宮外苑内に創建された。 戦前は「神域」という立場上、プロ興行は認められていなかったが、52(昭和27)年に米軍が神宮球場の接収を解除。 戦後は大学野球よりもプロ野球が盛んになった。当初、東映フライヤーズが神宮に移転し、 当時のパ・リーグとしては異例の2万人以上集める人気球団だったが、その後、後楽園に移転。 入れ替わるようにスワローズが新しい主となり、40年もの間ツバメを育ててきた。
07(平成19)年11月、東京六大学対東京スワローズの奉納試合が行われた事によりプロと大学の歩み寄りという胎動は生まれた。
ずっと残って欲しい東の聖地であると同時に、甲子園やGS神戸を脅かすような名球場になってほしいと切に思うが、 年間400試合に天然芝が耐え切れるのか…それを解決しない限り内外野天然芝の夢はかなえられそうに無い。

神宮球場は、以前はプロ開催球場では日本一小さく、「ホームランの出やすい球場」と一般に言われているが、 61年(昭和36年)までは両翼100m、中堅118mの大型球場だった。 丁度外野指定席の辺りまでが、フィールドだったという事である。しかし、オリンピック開催のため東京都に駒沢球場を追い出された東映フライヤーズが神宮を本拠地にする際、 HRが出難いという理由でプロ野球開催時のみラッキーゾーンを設置することになった。 あろうことに神宮を小さくしてしまった要因はプロ野球であることは忘れてはいけない事実である。
その後、64(昭和39)年に早大外野手のフェンス激突事故で危険防止策の設置を要望された大学野球側もラッキーゾーンを採用することになり、 67(昭和42)年のスタンド・フィールド改築の際に両翼91m、中堅120mの形が生まれた 。

フィールドエリアも82(昭和57)年に全面人工芝となったが、それ以前は外野天然芝、内野黒土だった。 スタンドにしかり、天然芝にしかり、今となれば何故そんなことをしたんだと言われそうだが、 当時のプロ開催球場の多くが両翼90m台の球場であったという背景も考えるべきだろう。 そしてこの狭さが石川などに代表されるスワローズ投手陣の針の穴を通すようなコントロールを養ったのである。天然芝から人工芝にしたことで、 プロアマ通じて400もの試合に耐え抜き、イベントなどでも使えるようになったのだから一概に文句は言えない。

既に誕生80年を超えた。スタンドも改修後30年近く使用しており、本格的な改装が必要になっている。 もし神宮球場でプロ野球・大学野球を共存共栄させるのであれば、両翼の拡大、二階席の充実、 そして400試合耐え抜く天然芝を如何にして育てていくのかが課題である。
それが厳しいのであれば、神宮に替わる球場や他県への移転も視野に入れるべきだろうが、 アンチ巨人ファンの拠り所である東京スワローズを移転させるのは忍びない所である。
Stadium Data
所在地 〒160-0013 東京都新宿区霞ヶ丘町3-1 マップ
右翼 101m
右中間 112.3m
中堅 122m
左中間 112.3m
左翼 101m
外野フェンス 3.5m(ラバー:2.0m、金網:1.5m)
面積 12,659m2
フィールド面 ロングパイル人工芝
照明塔 6基
照度 投捕間:3,000lxs、内野:2,300lxs、外野:1,700lxs
観客動員数 35,650人
Stadium History
前史:明治神宮奉建と神宮外苑開場
1912(明治45)年7月30日、幕末維新の混乱期を乗り越え、憲法発布、議会開設、日清日露戦争、条約改正という激動の時代を統治してこられた明治天皇が崩御。もともと対露開戦に反対せられてきた天皇は日露戦争の折から御心痛により体調を崩されていたという。
国難と近代化という時代を生きた偉大な天皇の死は、国民に大きな衝撃を与えた。ドイツの医師ベルツは、有名なベルツの日記に「明治天皇の死は一時代の終焉でもある」と記している。夏目漱石も後期三部作の最終作『こころ』において天皇の崩御に言及し、明治時代の精神の終焉を見事に描いた。9月13日、青山練兵場において大喪の礼を挙行、乃木希典ら多くの人々が殉死したという。
それから2年後、明治天皇皇后昭憲皇太后崩御。女性の地位が現代よりはるかに低かった時代に女子教育の普及に努め、赤十字社の設立に大きく貢献し、養蚕業の振興に興味を示されるなど、御夫君明治天皇とともに近代化に大きく貢献された皇后であらせられた。

大正天皇はお二方の御遺徳を偲び、また国民からも神宮奉建の要望が大きかったことから、15(大正4)年に神宮奉建を裁可せられた。御鎮座所は明治天皇が御生前歌に詠まれた代々木の杜が選択され(元来は井伊家の屋敷跡)、勤労奉仕団の働きによって創建が進められた。一説には、もともと東京市民から「東京に御陵奉建を」という要望があったが、宮内省が既に京都市伏見区に御料地を確保していたことと、明治天皇御自身が京都のお生まれだったことから実現せず、その代替措置として東京に神宮が奉建されたといわれる。
20(大正9)年11月1日、明治節(現在の文化の日)を前に御鎮座祭が挙行された。
明治天皇伏見桃山陵と明治神宮前に掛かる参宮橋。御陵の東隣には昭憲皇太后陵があり、豊臣秀吉の伏見城跡や伝桓武天皇陵も近くにある。明治神宮の初詣客数は例年全国一である。今でも京都や東京で明治天皇の人気は高い。

神宮外苑は明治天皇の御遺徳を偲び、民間の有志団体明治神宮奉賛会が寄付によって26(大正15・昭和元)年創建。政府の主導ではなく、国民の間から天皇の御遺徳を偲ぶべき施設建設の声が挙がったのが興味深い。明治天皇葬場殿跡の絵画館を中心に、国民の健康増進策の一環として国立競技場や秩父宮ラグビー場など、スポーツ施設も多く建設された。後に開催された東京オリンピックの際にはメイン会場となっている。

大学野球と神宮球場開場
神宮球場を語る際には、六大学野球の話は決して避けて通れない。 神宮球場は26(大正15・昭和元)年10月に開場したが、六大学野球の歴史はそれよりも古く、25(大正14)年秋に始まった。
当初は各大学のグラウンドでリーグ戦を行なっていたが、人気沸騰のため早大の戸塚スタジアムでは道路にまで人が溢れるほどであった。 そのため、大学野球専用スタジアムの建設が望まれていた。 この事態を重く見た東京六大学野球関係者の要望により、明治神宮外苑内に現在の球場が創建された。 総工費53万円(当時)、両翼100m、中堅118m、収容人員は3万1000人の大スタジアムだったが、 絵画館の景観を妨げるような高さにはしてはならないということであの傾斜のゆるいスタンドが作られた。
初の早慶天覧試合では入場できない大観衆が球場のまわりを取り巻いていたといわれる。 この様子をご観戦中、秩父宮殿下の「増築して多くの人に見せるようにしてはどうか」とのお言葉により、 31(昭和6)年には内外野スタンドを拡張。 ギュウギュウ詰めに座らせて公称6万人のアーチ状の外壁でお馴染みの現在の神宮球場が建設された。 34(昭和9)年にはベイブ・ルース率いる米大リーグ選抜が来日している。神宮球場では5戦連敗。 しかもダブルスコアが4試合と言う散々たる結果となってしまった。 この日米野球の後にプロ野球が誕生する。
しかし神宮球場は「神域」という立場上、プロ興行は認められていなかった。日米野球を主催した正力松太郎が「神域を汚した」として右翼暴漢に喉を切り付けられるという事件も発生したほどである。当時はプロ野球に対する偏見があったことも、事件の背景にあったようだ。

戦時下の神宮球場
戦火の足音が聞こえ始め、41(昭和16)年に対米開戦、43(昭和18)年には六大学野球の解散にまで追い込まれた。 終戦間近の5月には神宮球場の左翼ポールに近い内野席に数百個の焼夷弾が投下された。 球場内に格納されていた配給用の薪や衣料品に引火し、一帯は火に覆われた。 バックネット裏や外野スタンドの一部は焼失を免れたが、外形をとどめるのがやっとだった。 神宮ならではの特徴とされた古代円形競技場コロッセオに似た、球場外周のアーチ形の柱も崩れ落ちた。
45(昭和20)年8月15日、昭和天皇により終戦の大詔が発令せられ、9月2日重光・梅津全権が東京湾上のミズーリ号にて降伏文書調印、日本は占領体制下に入った。

戦後-プロ野球解禁へ
終戦後の9月、神宮球場は進駐軍に接収され「ステートサイドパーク」として進駐軍と家族の娯楽施設になった。 日曜日となれば、家族とバーベキューをしながら、野球やフットボールに興じる米国人の姿があった。
一方この戦争で多くの大学野球選手たちが命を落とし、命からがら帰ってきた選手たちも全国に散り散りとなった。 そんな早稲田、慶応の現役、OB野球部員たちに「オール早慶戦」の一報が届く。 早慶のOB、現役が一緒になってのオール早慶戦は観衆4,5000人。 この試合は、翌46(昭和21)年3月11日の東京六大学野球連盟の復活へとつながっていった。東大野球部が歴代最高順位の準優勝を飾ったのもこの時期である。

同時に、プロ野球にも神宮球場の使用解禁が迫ってくる。 46(昭和21)年には東西対抗戦が開催され、これを契機としてプロ野球興行にも道が開かれることとなる。
50(昭和25)年に初の日本シリーズ第1戦、松竹対毎日が執り行われたが、プロ野球の本格的使用は1960年代までお預けとなっていた。 61(昭和36)年、駒沢球場をオリンピックスタジアムに改装するため、 駒沢から追い出された東映フライヤーズは東京都の仲介により、学生野球の聖域神宮球場を使用することに成功する。 折しも当時のフライヤーズは駒沢の暴れん坊と呼ばれた時代。安打製造機の張本に怪童尾崎行雄、安藤元弘の新加入組。 まるで06(平成18)年のファイターズを更に強力にしたようなチーム。 更に監督は、名将水原監督ということもあり、神宮球場は後楽園の巨人戦に匹敵する観衆を集めた。

スワローズ、神宮へ

一方、後楽園に住んでいたツバメこと国鉄スワローズは、苦境に立たされていた。 62(昭和37)年5月、東京三河島で起こった列車事故による批判は球団にも飛び火していた。 経営悪化とチームへの影響を考えた国鉄は、同年8月、球団譲渡を前提とした業務提携を、 プロ野球進出を目論んでいた産経新聞社、フジテレビと締結。これにより、フジサンケイグループと球団との関係が生じる。 この時点で経営主体はフジサンケイに移り、63(昭和38)年にスワローズは神宮第2球場を本拠地(観衆:3,5000人規模)とする案を出したが、 プロが神宮を乗っ取る伏線だという声が出てスッタモンダの末、結局東映フライヤーズと入れ替わる形で神宮を新しい住処とした。 それから、40年経った今でもマスオさん状態のままである…
チーム名も譲渡後はサンケイアトムズとなったが、共同株主のヤクルトが筆頭株主となると、ヤクルトアトムズを経て従来のスワローズに戻し、ヤクルトスワローズとなった。

その後ヤクルトの初優勝は78(昭和53)年に達成されたが、日本シリーズは日程の関係上、神宮球場での開催が出来ず後楽園球場開催となった。 当時の対戦相手はこれまでシリーズ3連覇を決め、4連覇の掛かった阪急ブレーブス。日本シリーズは第7戦までもつれ込む接戦となり、あの球史に残る日本シリーズ1時間19分の中断という史上最長の猛抗議が行われた。
83(昭和58)年には、早稲田実業の荒木大輔選手がヤクルトに入団。 このトラブルを避ける為にクラブハウスから球場内に入る“荒木トンネル”が作られるほどだったが、 ヤクルトは78(昭和58)年の日本一以後、再びBクラスの常連チームになってしまう。 80年代前半にいたっては最下位が5回という圧倒的な弱さだった。85(昭和60)年の阪神優勝を初め、他球団の胴上げ球場とまで言われたほどである。しかし一方で、池山、広沢、古田、土橋、飯田などといった黄金時代の選手たちが次々と入団してきたのもこの頃だった。

スワローズ黄金時代の到来

89(平成元)年に関根順三氏の後任として野村克也氏(元東北イーグルス監督)が就任する。 初年度は5位だったが、土を耕し、種をまき、 3年目の92(平成4)年に阪神との接戦を制して優勝するという巧みな野球でスワローズは78(昭和58)年以来の優勝を決めた。 その年の日本シリーズはフランチャイズ制確立後初の神宮球場で行なわれたが、ライオンズに敗戦。 その後、93(平成5)年に2連覇すると、日本シリーズでリベンジを果たし、ライオンズを破り日本一となった。翌94(平成6)には4位に転落するが、95(平成7)年にダントツの成績を残し優勝、日本シリーズでは「がんばろう神戸」で湧き上がるブルーウェーブを4勝1敗で下す。この第4戦、スワローズオマリー対ブルーウェーブ小林は14球の熱戦を繰り広げた。結果は小林がオマリーを三振にしとめたが、オマリーは全戦を通じて大活躍し(第4戦開始時点でのシリーズ打率は6割を超えていた)、MVPを獲得する。
97(平成9)年にはライオンズ、01(平成13)年には大阪バファローズを下し日本一となるなど、ここ数回の日本シリーズではスワローズ出場の際は必ず日本一となっているが、これは古田・高津コンビの働きが大きい。

合併騒動、そして古田勇退
04(平成16)年、合併騒動に端を発した球界再編問題は、当時の選手会長がスワローズの古田だったことから、神宮球場は俄然注目を集めることになった。ファンからは古田の断固たる姿勢を応援するメッセージが多数寄せられ、中には宮内・堤・渡辺の横暴に振り回される古田選手会長の健康を気遣うメッセージもあったという。古田はこれらのメッセージに感激し、涙を流すこともあった。ストの際には、神宮球場でもファンサービスが行われた。

06(平成18)年、古田は若松監督の退任を期に野村克也以来29年ぶりの選手兼監督、いわゆるプレイングマネージャーに就任。ファンを大切にしてきた古田らしく、ファンサービスを中心とした改革を進めていく。中でもチーム名に「東京」という本拠地名を入れたことは高く評価された。チームも青木、岩村、ラミレス、ラロッカなどが活躍する。古田自身もまだ選手登録されていたことから、「代打、俺!」が見られるのではないかということもネタにされた(これの元ネタは同じくプレイングマネージャーを務めた阪神藤村の「代打、ワシ!」である)。
しかし古田の監督としての評判はあまり良くなかったようだ。コーチ陣からは「監督は居ても居なくても一緒」という発言もあったといわれている。結局、古田は07(平成19)年限りで監督を勇退、選手も引退し、スワローズを去った。

球場の拡張、今後の展望
07(平成19)、両翼を91mから101m、中堅を120mから122mに拡張、国際規格に適応した球場に改装された。しかし施設自体の老朽化を補修するところまでには至っておらず、全体として古い球場であることは否めない。また、東京スワローズも「セリーグ3強時代」の中で取り残され、成績は低迷している。
大学野球においても、ハンカチ王子こと早大斎藤が卒業し、新たなスター選手の発掘が急がれるところである。
神宮球場はスワローズと大学野球によって支えられた球場である。今後も甲子園と並ぶ「東の聖地」としての機能に期待したい。
MIDIデータ
「Penny Lane」/The Beatles
作詞:John Lennon / 作曲:Paul McCartney
データ制作:なごみ
【poco a poco】http://poco-a-poco.milkcafe.to/
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