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大阪ドームとは?
嘗ての旧大阪バファローズ本拠地球場。現在は合併容認移転反対派が何を言おうが、宮内新球団の本拠地球場である。97(平成9)年、ナゴヤドームとともに日本3番目のドーム球場として開業した。開業当時は関西初のドーム球場として「大阪の新名所」となることが期待され、道頓堀にあるグリコのネオンサインにも大阪城天守閣、通天閣、海遊館とともに背景として採用された。
しかし、運営会社の大阪シティードームは碌に経営能力もない天下り公務員の巣窟となり、次々と営業計画が失敗、数千万円もする空調機を僅か3回使っただけで廃棄するなど、ムダ遣いが明らかになり、「大阪の不良債権」として別の意味で注目された。大阪バファローズに対しても年間11億円という法外な使用料を要求し、これが後の合併騒動の引き金のひとつとなった。05(平成17)年末に経営破綻し、現在は宮内新球団オーナー企業がドームの所有権も保有している。
球場としての評判も、死角が多い、選手とファンの距離感が大きい、外野席からスコアボードが見えないなど極めて悪く、藤井寺時代を知るバファローズファンからの評判も決して良くない。この球場の不出来さも、合併容認移転反対派に「神戸移転」という実現する筈のない幻想を抱かせる一要因となっている。しかし近年は1・3塁両サイドにサブスクリーンが設置され、フィールドシートも新設されるなど、改善されつつある。

現在の名称は「京セラドーム大阪」であるが、ウィキペディアには「大阪ドーム」の名で登録されている。施設としての?落としは3月6日のglobeコンサート。
上の写真からも分かるように、お世辞にも「趣味がいい」デザインとは言えず、大阪環状線大正-弁天町駅間から見た外観のインパクトは計り知れないものがある。「お子様シャンプーハット」「551のぶたまん」「たこ焼きドーム(たこ焼きが鉄板からはみ出している様子に似ていることから)「ビッグノック(開業当時の大阪府知事、横山ノックの頭に似ていることから)」など、大阪らしく「変な名前」を多数つけられている。
地盤部分は最新鋭の耐震構造となっているが、これが仇となり、タテのりアーチストのライブが開催されると周辺のマンションが揺れるという問題が生じている。マンションの中には「部屋のゆれ具合で現在どんな曲が演奏されてるか分かる」とまで言われた(曲調が静かなバラードタイムになると揺れが収まる、など)。
野球場以外では、アメフト開場としても対応しており、02(平成14)年8月にはNFLの公式戦も行われた。03(平成15)年からは従来型人工芝からハイテク人工芝、フィールドターフに張り替えられたが、これは上記NFLの際に引かれたアメフトのラインが消えきらずフィールド面が見苦しくなったためというウラ事情がある。
なお、天井部分の可動式ハイパーリングは音響効果を調節できるためアーチストには評判が良かったが、部品製造会社がパーツの製造を取りやめてしまい万一故障した場合のメンテナンスが効かなくなったため、現在は固定されたままである。
Stadium Data
所在地 550-0023 大阪市西区千代崎3中-2-1 マップ
右翼 100m
右中間 116m
中堅 122m
左中間 116m
左翼 100m
外野フェンス 4.2m
面積 13,200㎡
フィールド面 内外野人工芝
照明灯 天井全周型、596灯
照度 バッテリー間:3000lxs 内野:2600lxs 外野:1800lxs
観客動員数 36,627人
Stadium History
前史:大阪球場、日生球場、藤井寺球場
かつて大阪には、プロ規格球場が3基あった。大阪球場、日生球場、藤井寺球場であるが、これらは現在、いずれも閉鎖されている。
大阪球場
かつて南海なんば駅西方にあった南海ホークスの本拠地球場。創設当初の南海軍(のち近畿日本、近畿グレートリングと改称。なおホークスの名称の変遷については『南海ホークスがあったころ(紀伊国屋書店刊)』が詳しい。)は主に中百舌鳥球場と甲子園を使用していたが、戦後に入り進駐軍の意向により、軍需工場跡地の再開発計画の一環として建設が決定された。都心の狭い地域に効率的に座席を設けるため、急激な擂り鉢型スタンドが設置され、ファンの間でも名物となっていた。管理人が幼少のころ、初めて野球観戦したのも大阪球場での南海-阪急戦である。
南海ホークスの本拠地球場として10度の日本シリーズがここで行われたほか、近鉄バファローズの日本シリーズもここで開催された。79(昭和54)年11月4日の日本シリーズでは、「江夏の21球」が話題となったことでも知られる。86(昭和61)年のオールスターにおいて、阪神川藤の1.5塁打もここで起こったことである。
嘗ては松竹ロビンスや阪神もここで試合を開催したが、2度の難波騒動をきっかけとして阪神戦は行われなくなった。野球以外では、マドンナなど有名アーチストの球場コンサートも頻繁に行われ、ブラジルの「サッカーの神様」ことペレもここで引退試合を行ったことが記録されている。
88(昭和61)年10月15日、杉浦監督が「行って参ります」と言い残してホークスが福岡に去った後、バファローズ-ホークス戦がここで行われたこともあったが、90(平成2)年の東西財界交歓野球を最後に球場としての使命を終えてCATS公演会場、次いで住宅展示場となり、98(平成10)年10月18日の「野球フェスタ」の後、取り壊された。
現在、球場跡地は複合商業施設「なんばパークス」となっているが、嘗てここが野球場だったことを偲ばせるモニュメントがそこかしこにある。
(左上)なんばパークスの内景。円と段を組み合わせたデザインは、嘗ての大阪球場を偲ばせる。
(右上)ホームベース跡のプレート。ピッチャーマウンド跡のプレートもある。管理人は右打ちなので右から撮ってみた^^。なお、正確にはベース跡があったのはここではなく、現在WINSとなっている1階部分。ここは正確なベース跡からちょうど垂直方向の上部にあたる。
(左下)9階エレベーターホールはそれ自体が南海ホークスメモリアルギャラリーとなっている。なお、南海OBとして名高い野村前イーグルス監督の名前と写真はどこにも見当たらないが、それは
あのクソババァが許可を出さないためらしい。
(右下)外野スタンドを模したベンチ。買物客の憩いの場となっている。後ろに見えるのはスイスホテル南海。

日生球場

かつて日本生命が保有していた球場で、大阪城の砲兵工廠跡南部に1950(昭和25)年6月、GHQの反対を押し切って創設された。?落としは6月29日の日本生命-関西大学野球部及び明治大学野球部。プロとしての初試合は7月1日の南海-毎日戦。藤井寺球場にナイター設備がなかった頃には実質的な近鉄本拠地として使用されたが、容量が最大収容人員23,000人と小さかったことから日本シリーズは開催されなかった。アマチュア野球の「西のメッカ」としても知られ、大阪の高校野球ファンの間では大阪大会決勝戦の地としても有名だった。
藤井寺にナイター設備が完成するとプロ興業は次第に行われなくなり、96(平成8)年5月9日の大阪バファローズ-福岡ホークス戦を最後にプロ野球は行われなくなった。なお、同日にはホークスの無気力に怒ったファンが選手の乗るバスに生卵をぶつけた、いわゆる「日生生卵事件」が発生している。翌97(平成9)年11月8日の近畿大学-三菱重工神戸戦を最後に球場としての使命を終え、同年末を以って閉鎖された。
現在、跡地は駐車場のほか、高層マンションが建ち並ぶ都心の一角となっているが、球場跡は今も残っており、かつての面影を僅かに偲ばせている。なお、2006(平成19)年5月9日、ホークスファンと旧大阪バファローズファンがここに集まり、生卵事件当時を偲んだ。
(左上)森之宮駅周辺の歩道のタイル。野球場をかたどっているのが分かる。
(右上)大阪市が設置した案内板には、今でも日生球場の名が残る。てか、10年もほったらかしにするなよ…( ̄~ ̄)ξ
(左下)管理人が立ってるのはおそらくライト側外野跡あたり。
(右下)難波宮跡から大阪城とTWIN21を臨む。なお、現在の難波宮跡は孝徳天皇の時代に建てられたもの。仁徳天皇時代の宮跡もこの近くにあったと考えられる。

藤井寺球場
かつてのバファローズ本拠地球場にして、東北イーグルス発祥の地。大阪鉄道(現在の近鉄南大阪線)が藤井寺周辺の宅地開発を目指して1928(昭和3)年5月に建設した。開業当初は甲子園を凌ぐ規模を誇ったという。戦時中に大阪鉄道が関西急行(近鉄大阪線及び奈良線)、南海電鉄と大合併して近畿日本鉄道が創設される(のちに南海電鉄は独立)と、近鉄本社の所有物となった。なお、これによって近鉄本社は一時期、球団を保有したことになる。ホークスが「近畿」を名乗ったのはこのためである。
戦後、近鉄パールス(のちバッファロー、バファローズと改称)が創設されると本拠地となり、照明設備等の建設も始められたが、周辺住民の申請により大阪地方裁判所が建設差止めの仮処分を決定、このために日生球場が長く使われることとなった。照明塔は住民との和解を経て84(昭和59)年に完成したが、鳴り物応援は一部の例外を除いて最後まで禁止された。
89(平成1)年には唯一の日本シリーズが行われ、巨人藤田監督の胴上げもここで行われた。なお、加藤哲郎の「巨人はオリオンズより弱い」という発言が東京ドームで飛び出したといわれているが、これは実際には報知新聞の飛ばし記事であり、このような発言は存在しない。しかし加藤本人は今でもこの話をネタにしている。
日生球場が閉鎖されると、高校野球大阪大会の主会場ともなった。
97(平成9)年にバファローズが大阪ドームに移転すると主に二軍球場となり、99(平成11)年10月7日の大阪バファローズ-千葉マリーンズ戦を最後に一軍開催は行われなくなった。その後、バファローズの合併消滅とともに二軍球場及び練習場としての使命も終えたが、2004(平成16)年11月13日には、発足直後の東北イーグルス選手が集合し、チームとして最初の合同練習を行っている。これはイーグルスの選手がバファローズ、ブルーウェーブのプロテクト漏れ選手によって構成されており、関西在住者が多かったためである。なお岩隈は本人が拒否したにもかかわらず合併球団にプロテクトされるという憂き目にあってしまったことから、練習会には参加していない。
2006(平成18)年6月の「藤井寺市民フェスタ」を最後に閉鎖された。跡地は学校法人四天王寺学園の所有となり、附属小学校敷地となっている。
(上)藤井寺球場の外観と内観。かつては電車が阿部野橋方面から藤井寺駅に入る前に、球場の壁が一望できた。
(左下)四天王寺学園附属小学校の外壁。なんとなく藤井寺球場の外観を偲ばせる。なお、ここは小学校なので一般人の立入りは禁止。許可なく立ち入ろうものなら不審者か変質者扱いされますので、ご注意を^^;
(右下)正門脇にある玉野勢三作「白球の夢」。球場跡に残る唯一のモニュメントだ。

開場:オリンピック誘致計画、移転当初の大阪バファローズ
大阪ドームの開場は1997(平成9)年。平成初期、大阪臨海地域には大阪ドームを初め多くの公共事業が展開されたが、これは2008(平成20)年のオリンピック招致を大阪市が目指していたことによる。関西初のドーム球場として大阪ガスの工場跡に建設された。当時、大阪環状線からはガスタンクや石油タンクが一望できたが、これらの跡地を利用して建設が進められた。
天井部分は上下可動式のハイパーリング方式が採用され、2階はグリンドムモール、9階はフェスタモールという商業施設が設けられるとともにシムランドQという遊園地が設置されるなど新たな観光名所となることが期待された。同年には新たな「家主」としてバファローズの移転が決定し、南海ホークス以来の「大阪市を本拠地とする球団」も誕生した。ドーム周辺にも商業施設「PADOU」が開業し、ゲームセンターやボーリング場、びっくりドンキーなどがテナント入りした。
プロ野球の試合は、大阪ドーム開設記念「コナミプロ野球トーナメント大会」が最初。ブルーウェーブ対ジャイアンツ戦で清原和博選手がスーパーリングの屋根の中にボールを飛ばすファウルを打ち込むなど開場当初から珍プレーがあった。 バファローズが前年4位のため、グリーンスタジアム神戸での3連戦がバファローズの開幕ゲームだったが、開幕から3日続けて雨で中止。 公式戦初試合が大阪ドームでの開幕になる幸運に恵まれた。するとそのマリーンズ戦で、バファローズの鈴木貴久選手(故人)が 大阪ドーム初アーチをレフト上段席にぶち込む。開業初年度にはオールスターも大阪ドームで開催されている。この試合では、ライオンズの松井稼頭央選手が「セリーグの頭脳」古田相手に球宴新記録の4盗塁を決めライオンズの ニューヒーローとして名前を売った。後の02(平成14)年オフの日米野球でも松井稼は大阪ドームで大暴れし、ゴジラよりリトルとメジャーに強烈なインパクトを与えた。
99(平成11)年5月3日、怪物として高校球界に名を知らしめたライオンズのルーキー松坂大輔選手の前年10月以来(アジア3A大会)の関西凱旋に大阪ドームは盛り上がり、次の登板を予定していた5月3日のチケットは完売するほどで、ひさかたぶりの満員御礼となった。内野自由席、外野自由席のチケットを持つ観客は朝から長い列を作り、開場後も松坂が投げると一斉にフラッシュが焚かれるなど異様な空間になっていた。しかし、初回で中村紀洋選手にレフト上段にホームランを打たれると、2回に爪が割れ登板回避となった。この中村のホームランで幕を開けた中村VS松坂の対決は嘗ての野茂VS清原の対決を髣髴させる「新、平成の名勝負」としてイチロー対松坂と並ぶ人気対決となった。

しかし球場としての不出来さは完成当初からファンの間で問題視されており、「藤井寺のほうが良かった」というバファローズファンの意見も多く聞かれたという。移転当初のバファローズも94(平成6)年限りで野茂がドジャースに移籍するなど戦力低下が目立ち、強いとは言い難い状況にあった。更に従来の根強い人気を誇る阪神やブルーウェーブのイチローブームもあり、入場者数は伸び悩んでいた。しかし一方で、中村紀洋、礒部、岩隈、トレード組の吉岡、北川らが成長し、バファローズへの期待は少しずつ膨らんでいった。

バファローズ、ライオンズ、ホークス3強時代
移転後、大阪バファローズは97(平成9)年の3位を除き、20世紀中はAクラスに入ることさえなかった。亀山房代と里見まさとから「阪神との裏日本シリーズ」というネタが飛び出したほどである。しかし世紀が明けた2001(平成13)年、ローズ、中村、礒部を中核とする「いてまえ打線」が爆発、シーズンは開始から荒れ、ライオンズ、ホークスと三つ巴の優勝争いとなった。下馬評では前年最下位のバファローズが勝ち抜けることを予測する者は少なかったが、前半を首位でターン、更に終盤で追い上げ、ついにマジック1とした9月26日、北川の代打満塁ホームランでサヨナラ勝ち、大阪ドームで劇的な優勝を決めた。なお、このときの対戦相手だったブルーウェーブの監督は、嘗てバファローズ監督も務めた仰木だった。仰木監督は「変な話だが、見れて良かった」と述懐している。このほか、シーズン中ローズが王貞治以来の55本塁打を放ち日本記録タイに並んだが、ホークス戦での敬遠攻めが響き新記録は成らなかった(翌年にはカブレラも敬遠攻めにあっている)。
しかし日本シリーズでは野村監督の薫陶を受けた若松監督率いるスワローズ相手に1勝4敗と敗退、結局これがバファローズ最後の日本シリーズとなった。
翌02(平成14)年には投手陣でも岩隈、パウエルらが活躍したが、打線は前年ほど爆発せずチームは2位に終わる。更に03(平成15)年には3位となるが、この3年間はバファローズ、ライオンズ、ホークスが上位を独占する「3強時代」だった。その一方、大塚や中村の移籍問題、ローズの突然の解雇など、フロントの運営は混迷を極めた。

合併騒動、バファローズ消滅
2004(平成16)年6月13日、大阪バファローズとブルーウェーブの合併計画が発表されると、バファローズファンは一斉に反発、7月3日には大阪ドーム前で他球団ファンを巻き込んだ大集会が行われた。ブルーウェーブ側が「合併容認・移転反対」で固まる一方(もちろん管理人はここには含まれていない)、バファローズ側からは本拠地論争などという愚かな意見は聞かれず、ほぼ一斉に合併反対で一致した。更に7月8日、古田選手会長の会談要求に対して渡辺恒雄が行った「たかが選手」発言に反発したセリーグファンも運動に合流し、合併反対は一大ムーブメントとなった。
選手会は東京地裁に合併差止めの仮処分を申請、これが却下されると東京高裁に即時抗告。結果的には申請は却下されたが、裁判所の判断では選手会に団体交渉権があることが認められ(東京高裁決定平成16年9月8日。これについては『平成16年度重要判例解説(有斐閣)』を参照されたい)、これを受けて9月18日、球界史上初のストライキが決行された。騒動はライブドア、楽天が新規参入を表明したことで収束に向かったが、バファローズファンの署名活動は9月末まで続いた。
このとき、当時の大阪府知事、大田房江は、「ライブドアが大阪ドームを本拠地としたいならば本社を大阪に移せ」「阪神に大阪ドームでの主催試合を増やしてもらいたい」と的外れな発言を繰り返し、多くのファンから非難を浴びた。なお、大阪ドームを管轄するのは大阪市であり、本来府知事に関係ないことはあまり触れられてない。
結局、27日の神戸での試合を最後にバファローズとブルーウェーブは消滅、阪急近鉄以来の歴史に幕を閉じた。


その後の大阪ドーム
バファローズ消滅後、2005(平成17)年から大阪ドームは宮内新球団の本拠地となったが、大阪シティードームが同年末に経営破綻、公有化を経て宮内新球団オーナー企業の子会社へと売却された。当初、入札には京都に本社を置くMKタクシーも名乗りをあげたが、大阪市から難癖をつけられ却下されている。初めから売却先が決まっていた出来レースだったのだ。なお、宮内はその後同様の手法で国民の共有財産たる「かんぽの宿」も一括で国から買い叩こうとしたが、鳩山邦夫総務大臣に「出来レース」であることを見破られ、その英断により頓挫させられている。
しかし流石はGS神戸を運営してきた会社だけあり、球場設備は次々と改善されている。06(平成18)年には京都に本社を置くハイテク企業が命名権を取得、紆余曲折を経て7月1日から「京セラドーム大阪」となった。08(平成20)年、両サイドにサブスクリーンが設置され、「外野からスコアボードが見えない」という問題も解消された。10(平成22)からはフィールドシートが新設され、「アヴァンスシート」と命名されている。
しかし一方、観客数は微増ながら伸び悩んでいる。合併当初、宮内は「合併すれば実力も人気も2倍になる」と豪語していたが、実際は多数のバファローズファン、ブルーウェーブファンが脱落、合併から6年間でAクラスは1回だけという戦力不足が祟り、ファンが増えているとは言い難い。6年で監督が既に5人目と、運営方針を問題視する向きもある。更に岡田監督の下で阪神の戦力が安定してくると阪神人気にも圧され、「関西の野球人気低下」を象徴する球団となってしまった。合併球団は中村、清原らを獲得することで何とか取り繕おうとしたが、これも多くのファンから白眼視された。中村はその後、球団の野球協約に違反した年俸交渉で解雇され、球団は選手会やファンから激しい非難を浴びた。しかし合併球団ファンには愚かにも球団の協約に違反した年俸交渉を支持する意見が多数を占めた。これは当時の合併球団ファンの多くが旧ブルーウェーブファンであり、バファローズOBだった中村には冷淡だったためである。評価としては、
「合併は失敗だった」というしかない状況である。

もはや合併球団には何も期待できないのだから、今後はいかに球場設備が充実するかを楽しみに見るしかないのだろう。
MIDIデータ
「上・京・物・語」/ シャ乱Q
作詞:まこと  / 作曲:はたけ / 編曲:鳥山雄司、シャ乱Q
データ制作:M・A・I♪
【Secret MIDI world】http://www.secretmidi.com/
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