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千葉マリンスタジアムとは?
千葉マリーンズ本拠地球場。嘗てはスワローズが神宮球場を使用できない期間に仮本拠地として使用したこともある。マリーンズ以外では高校野球千葉県大会の決勝戦が行われる球場でもある。横浜スタジアム同様多目的広場としての機能も有しており、01(平成13)年以降は音楽イベント・サマーソニック東京会場としても知られる。
完成当初は周辺には球場以外には幕張メッセぐらいしかなく球場を出るとすぐに砂浜 という状態で、いかにも新興開発地域という風情があった。GS神戸が本拠地から「除外」された今、 パリーグでは宮城県営球場と並ぶただ2つの「屋根開き球場」となっている。 マリーンズ(旧ロッテオリオンズ)は92(平成4)年、千葉市が政令指定都市となったことを契機に川崎球場から移転。 本拠地名を球団名に配置するのはパリーグでは福岡ホークスに次いで3例目であり(過去に前身の「東京オリオンズ」がある) 、いわゆる「地域球団化」への方向性を示したと言えるだろう。 歴史ある「オリオンズ」の名が消えたのは残念だが、それに見合うだけの成果を挙げたものとして注目される。 「改革」と称して歴史ある2球団をぶっ壊し、企業とオーナーの私物としたどこぞの失敗例とは好対照である。

両翼99.5m、中堅122.0m。球団史上初の国際規格対応球場である。特筆すべきは照明設備で、照明塔が無く壁上に照明を埋め込む形(大庇先端上投光器照明方式)を採用している。これはセントルイスカージナルスの旧ブッシュスタジアム(05(平成17)年シーズンで閉鎖)をモチーフにしたものである。
グラウンドは全面人工芝でファウルグラウンドが広く、05(平成17)年の取材当初はファールエリアが広い上に、スタンドからグラウンドまでの距離も遠かったが、優勝を境に大幅改装を実施。日本4例目となるフィールドシートを設置した。これにより選手との距離が縮まった。それ以外にも既存球団初となるラウンジスペースの設置などボールパーク構想を推し進めている。

全面が「象のオリ」のような外壁に囲まれているが、これは球場周辺が海岸で海風が強いことからこれを避けるために設けられたものである。実際、スコアボードには風速計が設置されているが、そんなものが設置されている球場は12球団でもここだけだろう。一方、渡辺俊介のように、この環境を得意とする選手も多く、「マリーンズ選手はマリン風に鍛えられている」とも言われる。
Stadium Data
所在地 〒261-0022 千葉市美浜区美浜1 マップ
右翼 99.5m
右中間 116.3m
中堅 122m
左中間 116.3m
左翼 99.5m
外野フェンス 4.44m
面積 未発表
フィールド面 内外野透水性人工芝(ショートパイル)
照明塔 サークルライン
照度 投捕間:2500lxs 内野:2500lxs 外野:1500lxs
観客動員数 30,011人(内野23,000、外野7,000)
Stadium History
前史:東京スタジアム・川崎球場
東京スタジアム

嘗て荒川区南千住にあった野球場で、東京オリオンズの本拠地。オリオンズオーナーの永田雅一が千住製絨所跡地に私財を投入して建設、1962(昭和37)年5月31日に開場した。6月2日の開場式は盛大に行われ、永田オーナーは観客に「皆さん、パリーグを愛してやってください!」と絶叫した。初の公式戦は同日の東京−南海戦。
しかし開場1年目こそ大入りだったものの、2年目以降の観客動員数は不振を極めた。見るに見かねた正力松太郎は「東京スタジアムでの巨人戦開催」を申し入れたが、永田は「巨人の世話にはならない」とこれを拒否したという逸話も残る(ただし国鉄スワローズ、大洋ホエールズの主催試合は行われている)。
70(昭和45)年10月7日、東京オリオンズから替わったロッテオリオンズの優勝の際にはファンがグラウンドになだれ込み、永田オーナーを胴上げして歓喜に酔ったという記録もある。
野球以外では映画やドラマの撮影にも使われ、『帰ってきたウルトラマン』35話と最終回はここでロケが行われている。
その後、スタジアムの経営権を取得した小佐野賢治(ロッキード事件でも有名になった人物である)が閉鎖を発表。72(昭和47)年シーズン終了と同時に閉鎖された。
嘗て「光のスタジアム」と呼ばれた球場周辺には真っ暗闇だけが残り、大変に寂しい光景だったという。実は小佐野はロッテ球団に球場買取りを求めたが、金田正一が「両翼のふくらみのない投手泣かせの球場など必要ない」と猛反対したため実現しなかったと言われる。
跡地は荒川区立スポーツセンターとなっている。なお、当球場については『こちら葛飾区亀有公園前派出所』でも取り上げられたが、30年を超える全編の中でも特に名作の誉れが高い。ストーリーは全編、両津の回想として展開し、ラストは両津が中川と麗子を連れてスポーツセンターを訪れ往時を懐かしむところで終わっている。(単行本82巻に収録)。
(上)千住製絨所記念碑と荒川総合スポーツセンター。両津が往時を回想していたのはこの交差点。嘗てはウルトラマンジャックとプリズ魔が対戦した場所でもある。「ウルトラ兄弟」という概念が史上初めて登場したのもここである。
(下)この蕎麦屋、おおもりは当時から営業している。

川崎球場

ロッテオリオンズが78(昭和53)年−91(平成3)年の間本拠地とした球場。51(昭和26)年、川崎市と日本鋼管(現JFE)、味の素らの出資によって株式会社川崎スタジアムが創設され、富士見公園内に建設された。もとは社会人野球を目的として建設されたが、翌52(昭和27)年4月3日には東急フライヤーズ−大映スターズが開催されている。
57(昭和32)年−77(昭和52)年は21シーズンの長きにわたり大洋ホエールズの本拠地となり、大洋は60(昭和35)年に球団初のリーグ優勝を決めている。王貞治の1本足打法もここで初めて披露された。
その後、大洋が横浜に移転すると、東京スタジアム閉鎖後実質的な本拠地不在に陥っていたロッテが入れ替わりで本球場を本拠地とした。
張本が前人未踏の3,000本安打を決め、落合が2度の三冠王を達成し、88(昭和63)年の「10.19」の舞台となるなど、球史に残る名場面もあったが、観客動員数は低迷を続けた。スタンドでは大学生のコンパや流しそうめん、バカップルの痴態、グラウンドに背を向けて勉強する浪人生、果てはファウルボールに直撃される居眠り中のサラリーマンなど、「珍プレー特集」では必ずと言って良いほどネタにされていたことは有名である。
一方、アイドルの佐野量子(現、武豊夫人)は村田兆児のファンとして有名で、雨の中傘を差してロッテ戦を観戦するシーンは微笑ましいものとして知られた。
91(平成3)年限りで本拠地としての使命を終え、2000(平成12)年3月26日のベイスターズ−マリーンズ戦を最後にプロ興行は行われなくなった。施設は現存しているが、スタンド等は撤去され、当時の面影はなくなっている。
現在の川崎球場の様子。スタンド等は取り壊されている。時計台はプロ最終戦を記念して設置された。

開場

82(昭和57)年の千葉市の定例記者会見において松井旭市長が21世紀の千葉市のシンボルとして「多目的千葉スタジアム」の基本構想を発表、当初は千葉駅近くの千葉公園球場を改築、収容4万人強のスタジアムを予定していた。その後紆余曲折があり、「幕張新都心計画」の中に組み込まれる形で88(昭和63)年1月に着工、総建設費133億円を費やし90(平成2)年2月22日に竣工、同年3月に開場した。
こけら落としは社会人野球公式戦のJABA千葉市長杯争奪野球大会の第1回大会。プロ野球の試合が行われたのは同年3月24日のオープン戦・ジャイアンツ−オリオンズ戦だった。91(平成3)年からはオリオンズやスワローズが公式戦を開催している。

千葉マリーンズ、移転
しかし、年に数試合程度の開催では利益を見込めるはずはなく、千葉マリンスタジアムにプロ球団を誘致すべきだとの声が上がる。これを受け、県・市は首都圏に本拠を置く6球団に対し公式戦・オープン戦の開催を求めるなど誘致活動を進め、関東6球団の中でオリオンズ球団にアプローチをかける。川崎球場の改装を求めていたオリオンズ側にとって最新の施設を使えるということで両者の意見が合致。91(平成3)年の夏に千葉移転を決定した(同時期にブレーブスも神戸への移転を決定)。当初は千葉オリオンズにする予定だったが、一般公募を基に改称することとなり、選考の結果、新たな愛称は「千葉マリーンズ」と決まった。なお、応募1位の愛称は「ドルフィンズ」だったが、頭文字「D」や語感が「ドラゴンズ」と被ることから採用されなかった。ブレーブスの改称の際も「ドルフィンズ」が候補に挙がったことがある。
92(平成4)年、千葉に移転したマリーンズは川崎時代にはなし得なかった130万人もの観客動員数を記録をしたものの、95(平成7)年を除き100万人台を推移するジリ貧状態に陥る。
また、強風による試合中止や94(平成6)年6月28日の赤トンボ襲来によるライオンズ戦中止(実際には雨天中止)、更には05(平成17)年10月22日の濃霧発生による日本シリーズ・対タイガース戦コールドゲームなど、気象条件に左右されやすい環境を改善する打開策として「千葉マリンスタジアムのドーム化」を求める動きが起こり、マリーンズ優勝の暁にはドーム化を検討するという話が持ち上がったが財政難と住民の反対のため立ち消えとなった。

マリーンズの興亡
一方、千葉マリンの新たな「家主」となったオリオンズ改め千葉マリーンズは、全盛期と低迷期を繰り返すこととなる。92(平成4)年、OBの八木沢荘六監督の下チームは最下位となるが、移転元年ということもあり年間130万人の観客動員を記録した。しかし翌年以降も万年Bクラスという低迷にあり、八木沢監督は休養、千葉県民・市民の目も次第に冷ややかとなり、観客の出足は低迷した。
95(平成7)年、広岡GM、バレンタイン監督の下チームは建て直しを図り、メジャーでも強打者として知られたフランコを獲得、先頭打者諸積、3番堀、4番フランコ、5番初芝のクリーンアップを整備、投手陣でも小宮山、黒木、伊良部らが活躍して10年ぶりのAクラス入りを果たしBWに次ぐ2位に輝く。
しかしこの年のオフ、方針の違いから広岡GMとバレンタイン監督が対立、バレンタインは解任され江尻亮が監督に就任する。しかしこれには多くのファンが反発、ファン感謝デーではバレンタイン監督を支持するファンが横断幕を張って抗議する場面も見られた。案の定、この年はチームも5位と低迷、広岡・江尻揃って退団することになった。
98(平成10)年にはプロ野球史上最悪の18連敗(6月13日対ブルーウェーブ戦〜7月8日対ブルーウェーブ戦)を喫する。7日の対ブルーウェーブ戦(GS神戸)でプリアムにHRを打たれ降板した黒木はベンチの奥で声を上げて号泣した(後にプリアムは黒木を激励している)。この年退任した近藤昭仁監督は「もっと強いチームで監督をやりたい」と言い残し、多くの非難を浴びた。
一方、後の飛躍の原動力となる渡辺俊介、今江、西岡らが続々と入団してきたのもこの頃だった。

04(平成16)年、満を持してバレンタインが監督復帰、1年目こそ4位に終わったものの勝率は5割をキープし、一定の成果を残す。しかしここで球界を揺るがす大事件が勃発する。悪名高き合併騒動とそれに続く球界再編問題である。

「第二の合併」当事者として
04(平成16)年6月13日、ブルーウェーブとバファローズの合併という前代未聞の愚策が明らかになると、マリーンズファンは一斉に合併反対で結束。当事者のバファローズファンに次ぐ熱心さで反対運動に加わった。特に7月7日、それまで26年に渡りオーナー会議を欠席し続けていた堤義明が突如会議に出席、「第二の合併→1リーグに移行」という妄想を打ち上げ、これがマリーンズ−ホークス合併案であることが明らかになったことで、第二の合併当事者としてより関心が高まることになる。マリーンズファンは試合終了後のいわゆる「2次会」で、「合併反対!」の大シュプレヒコールを上げ一貫して球団数削減と1リーグ制導入に反対し続けた。第二の合併はホークス側が拒否したことでめでたく実現しなかったが、マリーンズファンの働きが大きかったことは言うまでもない。

真の市民球団へ
05(平成17)年、マリーンズはイーグルスと開幕戦で対戦、イーグルスにとって初の公式戦対戦相手となる。3月26日の開幕戦こそ敗れたものの、翌27日には26-0のプロ野球史上最多得点を記録して勝利、その後も今江、西岡、福浦らの活躍により、この年から導入されたセパ交流戦初代優勝チームとなった。更にシーズン2位ながらプレーオフでホークスを下しリーグ優勝(当時はプレーオフ優勝チームがリーグ優勝チームであり、現在より少しはマシなシステムだった)、日本シリーズでもタイガース相手に3戦連続2桁得点という圧倒的強さを見せて4連勝し、日本一に輝く。
その後再びチームはバレンタイン監督の解任もありBクラスに逆戻りするが、10(平成22)年は3位でシーズンを終え、CSで日本シリーズ出場、更にセリーグ優勝チームのドラゴンズを下しシーズン3位にして日本一を成し遂げた初のチームとなった。

一方、合併騒動を契機としてチームのファンサービスは球界でも1-2を争うほどのものに向上した。プレーオフ優勝賞金5,000万円のうち半額を京成バスのラッピングに充て、またマリーンズそばにマリーンズミュージアムを建設するなど、その内容は充実している。行政側もマリーンズとの連携を深め、千葉県職員募集広告に伊良部を登場させ、県・市レベルでの支援策も向上している。
11(平成23)年シーズンからはネーミングライツにより、大手通販会社の名を入れた「QVCマリンフィールド」という愛称が付けられた。
今後、千葉マリンスタジアムとマリーンズ、そしてファンとの連携を深め、市民球団として、また市の中心施設としてマリーンズと千葉マリンスタジアムがどれほどの成果を残していくかに注目したい。
MIDIデータ
「One Night Carnival」/ 氣志團
作詞:綾小路翔 / 作曲:綾小路翔
データ制作:今井啓太
【Sound GIGA】http://imai-k.hp.infoseek.co.jp/
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