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グリーンスタジアム神戸とは?
嘗て存在した、ブルーウェーブ本拠地球場。現在は宮内新球団のサブ球場として年間15試合そこそこの主催試合が行われるほか、阪神、巨人が年間1カード程度の主催試合を行う。
神戸市中心街から地下鉄で20分程度の場所にある典型的な郊外型球場で、神戸市総合運動公園の一画を占め、周辺は非常に心地よい環境が整備されている。球場の手入れもよく行き届いており、天然芝の美しさも特長で、「好きな球場ランキング」では常に上位をキープしている。
その一方、交通の悪さと公園施設以外のものが何もないという不便さは多くのファンの顰蹙を買う要因ともなっている。
正式名称は神戸総合運動公園野球場で、ウィキペディアにもこの名称で登録されている。外野総天然芝球場は本拠地12球場でも甲子園、広島だけで、内野天然芝も広島だけであり、嘗て本拠地球場だった頃の豪華さが実感できる。
球場の構造はライオンズ球場と同じ掘込み式であり、観客席の上にコンコースがあるという特殊な構造になっている。そのため、球場のどこからでもグラウンドを見渡すことができる。イチローも「神戸は日本一の球場」と述べていたほどだった。
早くから球場の分煙化に取り組み、防球ネットを取り外し、フィールドシートを設置するなど、先駆者としての意義は高いといえる。
Stadium Data
所在地 654-0163 兵庫県神戸市須磨区緑台総合運動公園内 マップ
右翼 99.1m
右中間 117.0m
中堅 122m
左中間 117.0m
左翼 99.1m
外野フェンス 2.45m
面積 未発表
フィールド面 内外野天然芝
照明塔 4基
照度 投捕間:2500Lx 内野:2400Lx 外野:1700Lx
観客動員数 35,000人
Stadium History
前史:西宮球場、神戸市民運動場野球場
阪急西宮球場
かつて阪急ブレーブスが本拠地とした球場。米国視察中の阪急グループ総帥・小林一三翁は、阪神電鉄が球団を創設したことに強い衝撃を受け、直ちに本社に打電し、球団創設と球場建設を指示した。そうして創設されたのが阪急軍・のちの阪急ブレーブスである。直ちに球場も着工され、甲子園に程近い西宮北口に1937(昭和12年)5月1日に開場した。もともと甲子園に対抗して建てられたという事情があることから、2階建ての観客席や内野を覆う大鉄傘など、画期的な設備を備えていたことでも知られる。
戦後は第28回中等野球(現在の高校野球)のメイン会場となり、また一時期は夏の高校野球のサブ球場として数試合が行われたこともある。阪急の本拠地として10度の日本シリーズが行われたほか、晩年は阪神の「死のロード」期間中の仮本拠地としても機能した。
野球場以外でもコンサート会場やキンダーフェスティバル、3,000人の吹奏楽の会場としても使われるなど、多目的施設の先駆け的存在でもあった。また、競輪場やアメフト開場としても使用されている。宝塚歌劇団の運動会が開催されたこともあった。
阪急ブレーブスが譲渡された平成以降も、2年間はブレーブスの本拠地として機能したが、ブレーブスが神戸に移転したのちはプロ興行は次第に行われなくなり、1996(平成8)年8月24日の阪神-広島戦を最後にプロ球場としての使命を終えた。なお、翌年には大阪ドームが開業している。
2002(平成14)年度末を以って閉鎖された。跡地は複合商業施設・西宮ガーデンズとなっており、5階の阪急西宮ギャラリーに当時の様子を偲ぶコーナーが設置されている。
(上)西宮ガーデンズ外観。中には阪急百貨店のほか、フードコートやイズミヤもある。西宮北口とは通路で繋がっている。
(中左)駅名表示板の括弧書は、かつては「阪急西宮スタジアム前」だった。梅田の阪急百貨店外壁にも西宮球場の名前があったが、今は削除されている。
(中右)スカイガーデンにはベース跡らしきプレートが残されている。
(下)阪急西宮ギャラリーの展示。優勝ペナントや西宮球場の模型もある。阪急神戸線と今津線の平面交差の様子も見事に再現されていた。

神戸球場

GS以前には、神戸市長田区には神戸市民運動場野球場があった。これは1928(昭和3)年の昭和天皇御大典を記念して建設されたもので、プロ野球も頻繁に開催されていた。43(昭和18)年5月26日には南海軍のエース、別所昭が大和(前期イーグルス)相手にノーヒットノーランを達成している。戦後は米軍に接収されたが、接収解除後は阪神二軍こと阪神ジャガーズの本拠地としても使用された。
しかし甲子園や西宮にナイター設備が完成すると、兵庫県内のプロ野球開催は次第に行われなくなった。またGS神戸が完成すると神戸市の中心的球場としての地位も失い、主にアマチュア野球開催球場として使用されることになっていった。95(平成7)年の大震災後にはグラウンドが仮設住宅として使用されたが、これらが撤去されたことを受けて2000(平成12)年に閉鎖された。現在その跡地は公園となっている。

開場、ブルーウェーブ移転

GSの球場としての歴史は意外と古く、1988(昭和63)年3月6日に開場した。もともとは85(昭和60)年に開催されたユニバーシアード神戸大会に合わせて開催された神戸グリーンエキスポの跡地を再開発したもので、嘗て存在した神戸市民運動場野球場に代わる市の中心的球場として建設された。両翼99.1m、バックスクリーン122mという国際規格球場は当時の日本では東京ドームとGS神戸のみであり、当時の神戸市の先進性が覗われる。プロ野球としての?落としは、同年3月12日に行われた阪急-阪神戦だった。

阪急ブレーブスがブレーブスに変わり、引き続き西宮を本拠地とする中で、同時期に福岡に移った福岡ホークス戦だけは全試合がここで行われた(雨天代替試合を除く)。これはもともとホークスが神戸移転を目指していたことと、当時のホークスのオーナー企業本社が神戸にあったことに配慮したものだった。なお、その会社の本社は2011(平成23)年現在、東京に移転している。

91(平成3)年、ブレーブスがブルーウェーブに改名するにあたり、神戸市の熱心な誘致活動を受けて、BWの新本拠地となった。当時のBWの移転先候補としては、千葉と札幌も候補に上がっていたといわれているが、千葉は既にオリオンズから変わったマリーンズが先鞭をつけており、札幌はホワイトドーム計画(これについては札幌ドームの項で触れる)が頓挫したことから、最終的に西宮から近い神戸が移転先として決定したという。

当時のブレーブスは阪急時代からのブーマー、松永、石嶺、藤井と、平成以降にホークスから移籍した門田を擁する「打」のチームであり、これらの選手で構成される「ブルーサンダー打線」は「切れ間がない」と言われ他球団を恐怖に陥れるほどのものだった。なお当時はバファローズもブライアントや大石を中心とする「打」のチームであり、「ブレーブスとバファローズが合併すればこの上なく破壊力のあるチームが結成できるのではないか」ということをネタにした漫画も登場したほどである。
しかし神戸移転以降、上田監督から代わった土井正三監督は、これらの選手を次々に放出し、チームは次第に「短打と守備と投手力のチーム」に変化していった。これに対しては当時のBWファンからも評判は悪く、「(土井監督は)東京に帰れ!」と言われたほどだった(この辺りはテリー伊藤氏の『ダメ監督列伝』が詳しい)。これは選手も同じだったようで、藤井は91(平成3)年5月のヒーローインタビューで「BWはこんなに弱いチームじゃない!」と涙ながらに訴えたこともあった。パンチ佐藤も引退に際し「上田、仰木という名将のもとでプレーできたことは幸せでした。途中一人変なのも混じってましたけど。」と発言している。
しかし、GSは西宮に比べて広く、球場規模に合わせた戦略の転換はむしろ当然と言える。また短打のチームに転換したことは、後に「世界の安打製造機」イチローが登場する下地にもなっており、「BW鉄壁の外野陣」も土井監督時代にその原型が作られている。こうした点は再評価すべきだろう(流石に巨人V9時代がどうだとかは論外だが…)。

イチロー登場、大震災、そしてBW日本一へ
91~93(平成3~5)年、BWはAクラスをキープしつつも優勝争いに加わることはなく、土井監督は監督を解任される。代わって監督となったのは三原脩監督の愛弟子で、嘗てバファローズを優勝に導いた仰木彬だった。仰木監督は「選手の個性を活かす」という方針でチーム改革に乗り出し、新井コーチの進言と「鈴木さんと佐藤さんじゃ誰だか分からない」という理由で鈴木一朗を「イチロー」、佐藤和弘を「パンチ(パンチパーマだったことから)」と改名させるなど奇抜なアイデアを次々に実行していった。
これらの期待に応える形で、イチローは94(平成6)年、阪神藤村富美男の持っていた年間最多安打(191安打、1950(昭和25)年)を更新する210安打を放ち、打率でもパリーグ最高記録となる.385を叩き出し(両リーグ最高打率は阪神バースの.389。86(昭和61)年)、パリーグMVPを獲得。チームも2位となり、84(昭和59)年以来の優勝が期待される状況となっていた。イチローの年間210安打という記録は、2010(平成22)年に阪神マートンが214安打で更新するまで日本記録であり続けた。

しかしこうした期待は一瞬にして不安と絶望へと変わっていく。95(平成7)年1月17日早朝、淡路島北部を震源とする兵庫県南部地震、いわゆる阪神淡路大震災により、神戸市中心部は壊滅的打撃を受け、JR、阪神、阪急も線路が寸断されるという大惨事となった。神戸市とその周辺では、家屋の倒壊や地震直後に発生した火災により、8000人以上の死者が出た。隣の甲子園でも、選抜高校野球中止が真剣に検討されたほどである。
仰木監督は「神戸での試合は無理かもしれない」と語ったが、宮内オーナーの「こんなときだからこそ神戸でやろう!」というアドバイスにより、神戸での主催試合を決意。チームは「がんばろうKOBE」を合言葉(この合言葉を最初に考案したのは俳優の堀内正美氏である。後年堀内氏は、映画『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』で神戸市長役を演じた)にBW初、阪急ブレーブス以来11年ぶりの優勝を飾った。まだ宮内も若かったのだろう。ただしマジック1となった時点でバファローズ、マリーンズに4連敗を喫し、神戸での優勝は翌年に持ち越される。日本シリーズでは78(昭和53)年以来の因縁のあるスワローズと対戦するが、野村ID野球とその愛弟子の古田の術中にはまり、1勝4敗(神戸での勝ち星はなし。なお唯一の1勝は管理人自身が神宮球場で観戦している)で敗退した。
翌96(平成8)年には、念願の神戸での優勝を達成。藤井のタイムリーで本塁に滑り込んだイチローの飛び上がって喜ぶ姿が翌日のスポーツ新聞一面に大きく報道された。また日本シリーズでも、松井を擁する巨人の重量打線を相手に4勝1敗で勝利、日本一も神戸で決めた。

チーム力の低迷、そして忌まわしき合併
97(平成9)年以降も優勝はなかったものの、チームはしばらく上位をキープできるほどの底力を持っていた。しかしイチローがポスティングオフ制度でマリナーズに移籍し、星野や野田など優勝を支えた投手陣が相次いで移籍、引退していく中で、チーム力は徐々に低下していった。こうした暗雲の中でも最も決定打となったのは98(平成10)年オフの三輪田スカウトの自殺である。これを機にチームは急速に士気を失い、2000(平成12)年には4位に沈み、チーム末期の3年間は連続最下位だった。
球団運営もこの頃から「カネのかかる選手は放出し、そのお釣りで安上がりの選手を取ってくる」という状況(二宮清純氏はこの状況を「デフレスパイラル球団」と非難している)が続き、神戸の観客動員数は「公称1万人」というのもありえないほど惨憺たる状況となった。

その一方、球場運営では次々に画期的な試みがなされていく。まず2000(平成12)年には内野にも天然芝が張られた。これは当時の本拠地球場では唯一である。また同年には屋根開き球場としては初の分煙化を実施。コンコースに喫煙所が設けられ客席での禁煙化が徹底された(それでも管理人はBW応援団席の跡に吸殻を見つけたことがあるが)。2003(平成15)年にはフィールドシートが設置され、より選手に近い環境での観戦が可能になった。管理人はオープン戦の頃、フィールドシートのフェンスにシェルドンが腰掛けてファンに話しかけているのを見たことがある。
また、ネーミングライツが導入されたのも2003年である。しかしこの当時の命名権を購入した企業は企業名ではなく「商品名」を使ったためにファンからの評判は悪く、この名称は定着しなかった。また当時の命名権購入企業がインターネットプロバイダー業者だったため、その勧誘がコンコースでも展開され、「球場としての品位が下がる!」とかなりの苦情が出た。
結局、その企業が2004(平成16)年末に福岡ホークスのオーナーとなったため、しばらくの間「神戸球場」と名乗っていたが、2005(平成17)年、格安航空会社が命名権を購入した。これは前の命名権よりはかなり評判がよかったが、それでも球場名に「神戸」の名が使われておらず、ファンの間での定着率は高いとは言いがたった。11(平成23)年2月13日限りでこの航空会社との契約期間が満了し、翌14日から外食産業会社が命名権を取得、「ほっともっとフィールド神戸」に改名された。GS神戸での命名権で「神戸」という地名が入れられたのはこれが初めてである。
一方この頃、GSをドーム化するという案も浮上したが、「日本一すばらしい球場に屋根をつける必要などない」というイチローの猛反対により実現しなかった。後付けで屋根を取り付けても碌なものにならないというのはライオンズ球場を見れば明らかで、イチローの判断は正しかったと言える。

2004(平成16)年にはバファローズとブルーウェーブを合併させるという愚策が明らかとなる。ところが他球団ファンが「合併反対」を唱える中で、神戸市民やBWファンの意見はこれが1リーグ制を目指す動きの一端であることに気付きもせず「合併容認・移転反対」が多数を占めた。これは「合併は認めてもよいが、ブルーウェーブ側が主導権をとる以上本拠地は譲らない」というものだったが、大阪と神戸を比較して神戸が主導権をとることなど初めからできるわけはなかったのである。実際、GS周辺では合併容認移転反対派の署名活動が合併反対署名活動より大々的に行われており、6月29日の対ホークス戦でも応援団が掲げた横断幕は「移転反対」だった。オーナー以上に、ファンが愚かだったのだからどうしようもない。管理人はこの時期、「合併を認めれば移転は必然となる。断固として合併反対」を掲げたが、本来身内であるはずの多くのBWファンから裏切り者呼ばわりされた。
結果的に、合併球団は合併容認移転反対派を除く大方の人々の予測どおり」本拠地を大阪ドームとすることを発表。これをもって神戸のプロ野球本拠地としての役割は終わった。

その後の神戸
2006(平成18)年、僅か1年だけ合併球団が神戸を本拠地としたことがあった。これに嘗ての合併容認移転反対派は「やっと神戸に帰ってきてくれた!」と能天気に喜んだが、これは大阪ドームの経営破綻を受けた上での臨時措置に過ぎなかった。実際、2006年シーズン開幕とほぼ同時期に「来年(2007(平成19年)から大阪に完全移転し、神戸での主催試合は20試合程度に削減する」ことが発表されている。合併球団は2011(平成23)年以降、神戸での主催試合を10試合程度まで削減する方針だったが、一方で「神戸市が公金(つまり、市民の税金)から球場改修費を出すのなら、20試合程度開催してやってもよい」と提案、愚かにも神戸市もこの甘言に乗ってしまい、「たかだか20試合程度のために税金をムダ遣いさせられる」というバカっぷりを露呈してしまった。しかもこの状況に、嘗ての合併容認移転反対派残党は「神戸から撤退しなくて良かった、良かった」と狂喜している有様である。もちろん、20試合程度で採算が合う筈はなく、近年では巨人や阪神に熱心に主催試合の開催を要請するという無能振りをさらけ出している。そして遂に、11(平成23)年から合併球団主催試合が15試合にまで激減することとなった。
なお、阪神は2010(平成22)年9月に対ドラゴンズ戦2試合をGS神戸で主催したが、阪神がGS神戸で主催試合を行ったのは17年ぶりのことだった。2008(平成20)、2009(平成21)年には、甲子園改装のためクライマックスシリーズの一部を神戸で行う予定もあったが、これは条件が満たされなかったため実現していない。

もはや神戸がプロ野球の本拠地になることは二度とないのだから、今後のGSの命運は神戸9クルーズや兵庫スイングスマイリーズの動向に掛かっているということができるのかもしれない。
MIDIデータ
「もう少し、あと少し…」/ ZARD
作詞:坂井泉水  / 作曲:栗林誠一郎 / 編曲:明石昌夫
データ制作:りさぴょん
【りさぴょんのお・へ・や】http://www5d.biglobe.ne.jp/~risapyon/
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