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甲子園とは?
言わずも知れた日本野球の聖地。全国高校球児の目標とする球場であると同時に、阪神タイガースの本拠地である。 厳密には高校野球専用球場であり、定義上は阪神タイガースがこの球場を間借りしてるというのが正しいかもしれない。 04(平成16)年に傘寿を向かえた日本最古の常打ち球場であり、先の戦争、阪神大震災など幾度の戦災や災害を乗り越えた名球場である。

甲子園球場の両翼は96m、中堅までの距離が120mと国際規格と比べると若干短いようにも感じるが、 外野方向に独特のふくらみがあるため、実際の面積はかなり広い。 開業当時はライト側からレフト側までのフェンスが一直線であり、これを拡張して外野フィールドを作り出したため、 あの独特のふくらみが作られたのだろうと思われる。 実際、球場の平均的規模が現代よりもはるかに小さい時代に建設されたにもかかわらず、総面積40,000㎡で、 今なお総面積第2位を誇る(トップは福岡ドームだそうだ)。
嘗てはこのふくらみ部分がフェンスで区切られ、「ラッキーゾーン」と呼ばれた。これは若林忠志監督時代にファンサービスの一環として設けられたもので、ホームランが増えたと賞賛する一方、あの広い甲子園がもったいないと批判する意見もあった。もっとも、ラッキーゾーンが設置されたのは昭和30年代。球場の平均的規模が現代よりはるかに小さかった時代であり、これによって「ちょうどよい大きさに調節されていた」と見ることも出来よう。
しかしこれもドーム建設ラッシュや球場の拡張・移転などが相次ぎ、 軒並み球場が大型化したことを受けて92(平成4)年に廃止され、嘗ての広い甲子園が復活した。 それにしても、ラッキーゾーンを廃止しただけで現在の球場大型化に対応できたというのだから、いかにバカデカイ規模を誇っていたかが分かる。
甲子園の外野は総天然芝。現在常打ち球場で天然芝を用いているのは、広島とここだけである。内野は高校野球でもおなじみの独特の黒土だが、これは淡路島の黒土に砂をブレンドして作り出すそうである。何だか農業に適してそうだが、実際戦争中は食糧増産のため甲子園が大根畑になっていたという笑えないエピソードもある。

ところで、甲子園はもともと川床を干拓して建設されたため、地盤部分は今でも砂礫層である。 甲子園が天然芝であるにもかかわらず、比較的水はけが良いのはこのためだ。 嘗て元阪急の松永選手が甲子園を「子供のお砂場」呼ばわりしたと伝えられたが(これは「もう少しグラウンドは柔らかいほうがいい。砂場ほどでなくてもいいから」と発言したのがスポーツ新聞の飛ばし記事で誤って伝えられたものらしい)、いわば甲子園は淀川や江戸川沿いの草野球場の発展形のようなものであるとも言えるわけで、あながち外れていない発言である (尤も、そういう球場だからこそ「高校球児の夢舞台」にふさわしいのかも知れないが)。
Stadium Data
所在地 663-8171 兵庫県西宮市甲子園町1‐82 マップ
右翼 96.0m
右中間 118.0m
中堅 120m
左中間 118.0
左翼 96.0m
外野フェンス 2.6m
面積 グラウンド面積:14,700m2、スタンド面積:24,900m2
フィールド面 内野土、外野天然芝
照明灯 6基
照度 バッテリー:2,500lxs、内野:2,500lxs、外野:2,000lxs
観客動員数 47,808席(内野:28,765席、外野:19,043席)
Stadium History
前史:中等野球黎明期
甲子園球場の建設は1921(大正10)年の秋、武庫川の改修の際、支流だった枝川と申川の河川敷3万坪を阪神電鉄が買収することが発端となった。 当時はプロ野球も無く、野球といえば早慶戦や中等野球などの学生野球で、特に関西の中等野球の人気は絶大で連日札止めなどの状態に陥り、 大型球場の建設が叫ばれていた。
第1回全国中等学校野球選手権大会(現在の夏の高校野球)は15(大正4)年に開催され、豊中グラウンド(現在の豊中ローズスタジアムとは異なる)をメインスタジアムとした。しかしこれが手狭となったため、阪神電鉄は鳴尾に建設された新球場を提供し、第3回大会からは鳴尾球場がメインスタジアムとなった。当初はグラウンドが2面あり、試合日程の消化には都合が良かったようだ。しかしこれも手狭となったため、主催者の朝日新聞社は更に本格的な球場の建設を提案。この当時、阪神電鉄も西宮地区の宅地造成をにらんだ開発計画を立てていたことから意見が一致した。
甲子園周辺にあるモニュメント。左は甲子園通り歩道のガードレール。中等・高校野球歴代優勝校の名が刻んである。右は浜甲子園運動公園にある全国中等学校優勝野球大会開催の地の記念碑。鳴尾球場跡は現在団地となっているが、ここはその近くにある。

開場-阪神間モダニズムの時代
この頃の阪神地方の事情についても見てみよう。大正時代の阪神地方には阪神間モダニズムという文化傾向があり、西宮市内では高級住宅街の開発が進められていた。当時の大阪は「東洋のマンチェスター(英国最大の工業都市)」と呼ばれたアジア最大の工業都市だったが、狭い市街地に工場が密集したため大気汚染が凄まじく、健康被害が社会問題化していた。このため、富裕層を中心により良い住環境を求めた住民が次々と郊外へ移転し、大阪市中心部周辺では高級住宅街が形成されていった。阪神間モダニズムもそうした社会背景の中で形成された文化傾向だった。
この当時造成された住宅街は西宮七園と呼ばれた。今でも西宮市内に「○○園」という地名(甲子園、昭和園、甲風園、甲陽園、甲東園、苦楽園、香枦園)が多いのはこれに由来する。阪神電鉄は球場建設を核として、球場周辺地域を住宅地として開発することも計画していたのである。

こうして24(大正13)年3月11日起工、8月11日竣工したが、この年が十干十二支にいう「甲子(きのえね)」に当たり、60年に一度訪れる「すべての始まりの年」であったことから「甲子園」と名付けられた。全体のデザインはニューヨークジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)の本拠地球場、ポログラウンズであったという。周辺の住宅地名も「甲子園」であり、球場完成が地域名称に影響を与えていたことが分かる。開業当初は「甲子園大運動場」と呼ばれ、野球に限らずスポーツ一般に開かれた総合グラウンドとしての機能が期待されていたようである。戦前にはスキーのジャンプ大会(汽車で新潟から雪を運んできた)、戦後になるとアメフト、Jリーグの試合(94(平成6)年プレシーズンマッチ ガンバ大阪VSヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)戦)まで行なわれている。
しかしこけら落としの2週間後には、第10回全国中等野球大会が開催されており、実際の建設には朝日新聞社が深くかかわっていたことからも分かるように、当初から野球場としての機能がメインであったようだ。 中等野球では白熱する投手戦がしばしばあり、常設していたスコアボードでは足りなくなり(それでも1回から16回までのスペースはあったと記録に残っている)、 次々に簡易のスコアボードを作っていったという、今では笑い話のような伝説も残っている。最長は33(昭和8)年の中京商対明石商、延長25回という記録である。
一方、24(大正13)年に毎日新聞主催により名古屋山本球場で第1回大会が開催された選抜大会も翌25(大正14)年の第2回大会から甲子園に移り、春夏大会がともに甲子園で開催されるようになった。なお、山本球場はのち国鉄八事球場と改称された後、90(平成2)年に閉鎖されている。
甲子園の規模は当時からずば抜けていたようで、34(昭和9)年の日米野球で来場したベーブ・ルースは「この球場ではホームランは打てない」と驚嘆したほどだった。
改装前の甲子園の外壁。
蔦が印象的だが、これは建設当時の甲子園の外壁がコンクリートの打ちっぱなしで見苦しく、これを隠すために植えられたもの。新しい外壁はレンガ造りで見た目にも綺麗だが、蔦の根株部分が切り取られて全国の高校で保存され、甲子園完成とともに再び植えられた。数年後には再び球場を覆う予定である。
なお、旧甲子園については、甲子園アーカイブスを参照。
蔦の根株を保管していた高校は、甲子園の銘板でも記録されている。

タイガースの誕生
日米野球が成功したことで、全日本チームを母体とした大東京野球倶楽部(現在のジャイアンツ)を創設した正力松太郎氏は、この球場を保有する阪神電鉄に注目し、「第2のプロ野球チーム創設」を打診した。正力氏が「第2のチームは関西に」と考えていたのは、おそらくプロ野球界に「東西対抗」の概念を持ち込もうとしたためであろう。いわば「甲子園がタイガースを生み出した」というわけである。 タイガースの名の由来はデトロイト・タイガースである。これは当時の阪神工業地帯が日本最大の工業地帯であったことから、同じく全米一の工業都市だったデトロイトにちなんだものである。現在でもデトロイトは全米最大の自動車産業都市であり、なんと大阪、西宮を差し置いて愛知県豊田市と姉妹都市協約を締結している。東京のジャイアンツがニューヨーク・ジャイアンツなら、こっちはタイガースだという対抗意識もあったらしい。
こうした経緯を考えると、タイガースよりも高校野球に優先権があるのは当然であって、いわゆる「死のロード」や「開幕ゲームの甲子園開催ができない」のも甘受しなければならないのだろうな…と考えてしまう。なおタイガースが創設されたこの年に、外野スタンドも拡張し、現在よく知られている独特な形状の原型が出来上がった。
戦前期の甲子園では、阪神阪急定期戦が人気を集め、トランペット応援もこの対戦から始まったとされている。ただし現在の鳴り物応援の形が整えられたのは70年代の広島応援団からである。

戦火の足音
しかし甲子園にも戦争の時代の足音が忍び寄ってくる。第2次世界大戦に突入し、日除けのための鉄傘も軍部に提供された。41(昭和16)年には夏の大会、42(昭和17)年には選抜大会が中止となった。44(昭和19)年末には職業野球まで休止に追い込まれ、甲子園球場は食糧増産の為にイモ畑になる。原爆が投下されたのと同日の6日には空襲まで受けており、改装前の職員出入口のドアには機銃掃射の跡が残っていた。このドアは現在、甲子園歴史館に展示されている。終戦後はGHQに接収され、46(昭和21)年の高校野球は西宮球場で開催されたが、 47(昭和22)年に甲子園開催が復活した。
この戦争では、阪神黎明期を支えた名選手・景浦将も南方戦線で戦死(餓死と伝えられる)。奇しくも宿敵、巨人の沢村も乗っていた輸送船が米軍に撃沈され戦死した中でのことだった。景浦のバットスイングについて、ドラゴンズ落合監督は日テレ系「知ってるつもり!?」の中で「今だったらこんな豪快なスイングは絶対矯正されるだろう」と述べつつも絶賛している。

戦後-2リーグ分立
戦後、甲子園は米軍に接収され、54(昭和29)年まで米軍の施政下に置かれたが、47(昭和22)年にプロ野球が再開され、中等野球(のち学校教育法の制定に伴い高校野球に移行)とともに甲子園は再び関西野球ファンの注目を集めるようになる。この頃、球界では新たな動きが登場する。新規参入球団が増え、従来の1リーグでは持たなくなったことから、正力巨人軍オーナーが声明文を発表、リーグを2つに割り、その中で各チームを競わせるシステムに移行すべきであるとの意見を打ち上げた。その際、巨人を中心とする「読売派」と、新たに参入した毎日オリオンズを中心とする「毎日派」にリーグが分裂、読売派が後のセントラルリーグ、毎日派が後のパシフィックリーグとなった。
このとき、各鉄道事業系球団と関係の深かった毎日新聞社は、阪急、南海、近鉄、西鉄に加え、当然阪神も陣営に加わるだろうと見ており、実際仮調印も済ませていたという。しかしこの仮調印がどのような経緯で行われたのかは現在も謎のままで、誰がいつ調印したのかも不明となっている。結局、巨人側の要望もあり、阪神はセリーグに加盟、これを「裏切り」と見た毎日オリオンズは報復措置として別当、若林ら阪神の主力選手を大量引き抜きし、これが元で阪神は戦力が大幅に低下することとなった。実際、阪神のセリーグ初優勝はリーグ発足後12年目の62(昭和37)年まで待たなければならなかった。一方、毎日オリオンズは50(昭和25)年のパリーグ初代優勝チームとなっているが、阪神OBの貢献が大きかったことは言うまでもない。

藤本定義監督時代
黎明期から2リーグ分裂後の阪神では物干し竿バットの異名をとった藤村富美男が活躍。ミスタータイガースと称えられたが、かつて巨人黄金時代を築いた藤本定義監督は「投手王国」を目指した。そして登場したのがバッキー・小山・村山らの投手陣である。殊に村山は立教大学のセレクション(現在の推薦入試に相当)で不合格となり関西大学に入学したという経緯から巨人とその看板選手だった長島に強い対抗意識を燃やし、村山対長島は昭和の名対決として長く語り継がれることとなった。阪神はこの投手陣と、牛若丸吉田義男らの活躍により、62(昭和37)年に大洋ホエールズとの接戦を制しセリーグ初優勝、64(昭和39)年にも優勝を飾る。しかし日本シリーズでは東映、南海に敗れ日本一は成らなかった。余談だが、64年日本シリーズは関西チーム同士の対戦だったものの、シリーズ開催日程が東京オリンピックと重なってしまい、「日本一盛り上がらなかった日本シリーズ」と言われている。02(平成14)年のシーズンはワールドカップサッカーと重なったにも関わらず阪神人気が衰えなかったことと比較すると隔世の感がある。

「万年2位」、そして昭和60年の甲子園
64(昭和39)年の優勝後、セリーグは巨人V9時代に突入、阪神は長く栄冠から遠ざかることになる。そのような中でも、田淵、江夏、カークランド、ラインバック、ブリーデンらスター選手が活躍し、「万年2位球団」と言われる程度の力を誇っていた。中でも江川事件のとばっちりで半ば巨人から阪神に「売り飛ばされた」小林人気は絶大だった。記者会見では「同情はいらない。グラウンドでの働きを見て欲しい」とコメントし、恨み言ひとつ言わない小林の態度はそれまで小林を「敵」と見ていた阪神ファンから高く評価された。現在では、小林が巨人OBであることを忘れているどころか知らないファンも多い。なお、小林と江川は後に日本酒のCMで共演したのを機に和解している。一方、複雑な経緯を経て巨人に入団した江川は、巨人エースとして掛布との熱戦を繰り広げ、「掛布対江川」は村山対長島に続く名対決となった。
それから21年たった85(昭和60)年は、甲子園が全国的に注目された年だった。バース・掛布・岡田の対巨人戦(投手は槇原)3者連続ホームランで幕を開けたシーズンは、途中広島・巨人らに脅かされながらも阪神は終始好調を維持、ついに21年ぶりの優勝を果たした。続く日本シリーズでもバースが開幕から3連弾を放ち、下馬評を引っ繰り返して西武を撃破、初の日本一に輝く。

一方、高校野球ではPL学園の清原・桑田が活躍、夏の大会1回戦で東海大山形を毎回得点で下すなど大爆発してPLが優勝した。「甲子園は清原のためにあるのか!」という名アナウンスも飛び出した。後のドラフト会議では、清原が西武、桑田が巨人に入団している。桑田は早稲田進学を隠れ蓑に巨人と密約を交わしていたのではないかという憶測も呼んだが、現在この説は否定されている。後に桑田は現役引退後、早稲田大学大学院に進学し修士号を取得した。

悲しい出来事もあった。この年の8月、長野県尾巣鷹山山上で発生した日航機墜落事故により、阪神の中埜肇社長が死亡、選手会長を務めていた岡田は強いショックを受けたという。当時阪神はいわゆる「死のロード」期間中で、この事故後6連敗するなど選手の落胆は大きかった。また夏の高校野球開催期間中だったことから、高校球児の肉親や甲子園来場のため搭乗していた人たちにも犠牲者が出た。選手として出場中にも関わらず身元確認のため長野に飛んだ選手もいたという。

翌86(昭和61)年、阪神にはV2の期待がかかるが、投手陣が前年にアキレス腱断裂のため戦線を離れた山本和行など、抑えの中西以外アテにならない状態が続き、また掛布がシーズン早々中日戦で斎藤のデッドボールにより負傷するというアクシデントに見舞われたことから3位に終わる。しかしバースが2年連続三冠王に輝くなど、まだ期待できるところはあった。特にこの年、バースは日本記録となる年間最高打率.389を叩き出している。この記録はイチローですら破ることができなかった驚異の数字である。
しかし翌87(昭和62)年には年間最低勝率を記録して最下位に沈む。長いダメトラ時代の始まりであった。

ダメトラ時代、星野・岡田監督就任
86(昭和61)年の3位から再び阪神は低迷し、92(平成4)年の2位を除いてBクラスが定位置となった。これを立て直したのがドラゴンズOBの星野仙一である。星野監督は「長年染み付いた負け犬根性を徹底排除する」という方針でチームを立て直し、その中で桧山、赤星、藤本、藤川ら後の阪神を支える選手が育っていった。特に野村監督の置き土産の矢野は投手陣の絶大な信頼をうけ、阪神投手陣の整備に大きく貢献した。03(平成15)年に広島との契約がもつれた金本をFAで取得し、優勝すると星野監督は退任。
跡を継いだ岡田監督はリリーバーとして「ウィリアムス、藤川、久保田」のJFKを整備、勝利の方程式を確立し、05(平成17)年にも優勝した。しかし日本シリーズではマリーンズ相手に4連敗を喫し惨敗した。これはシーズン終了からシリーズ開始まで1ヶ月以上の期間が空き、勝負勘が鈍ってしまったためともいわれている。阪神の惨敗はセ・リーグでもCSが導入されるきっかけとなった。
しかし最大の原因は、時を同じくして村上宮内ファンドによる阪神電鉄買収の計画が持ち上がり、選手の士気が低下したことである。宮内は村上をけしかけ、阪神電鉄を買収することで将来的に「第2の合併」を模索していたのであるが、村上の逮捕により頓挫した。その後、宮内の法的責任が問われることはなかった。
その後、同戦力で08(平成20)年にも独走したが、終盤で巨人に逆転され優勝を逃し、岡田監督は引責辞任した。既に球団は優勝を見越して記念グッズ販売を計画しており、億単位の損害が出たという。

高校球児たちの活躍
一方、清原、桑田後の高校野球も、後にスターとなる選手を次々と輩出していった。89(平成元)年には上宮の元木が活躍、当時では考えられなかった「巨人逆指名」を行った。逆指名が制度として確立されたのはもう少し後のことで、形式上は「単なる希望発言」に過ぎないが、当時こうした発言をすることは稀だったため注目を集めた。ホークス田淵監督は元木を強行指名するが元木はこれを拒否、1年の浪人生活の後巨人に入団している。
92(平成4)年には星稜高校の松井が登場。明徳義塾監督の馬淵は対策として当時の投手に5連続敬遠を指示。高校球児としてあるまじき指示を出した監督の方針には非難が集中し、一時は「明徳を失格処分にすべき」という意見まで出された。監督の指示がもとで深く傷付いた明徳の選手はこの後の広島工業戦で惨敗し、馬淵の指示がいかに大きく選手たちを傷つけた罪深いものだったか露呈されることとなる。なお、これほどの重大事を起こしながらも、馬淵は一度の辞任を経て監督に復帰、2011(平成23)年現在もなお明徳監督の座に居座っている。この間、馬淵が敬遠事件の責任を何らかの形で取ったという話は一度もない。一方、その後の松井の大成は周知のとおりである。
97(平成9)年、平安高校(現:龍谷大平安)の川口が春夏の大会で活躍、歯に衣着せぬビッグマウスで甲子園を沸かせた。川口はドラフトでブルーウェーブに入団するが、大成せず04(平成16)年の合併騒動の後引退した。2011(平成23)年現在は京都アストドリームスのコーチを務めている。同年、高知商業では藤川が登場。後のドラフト指名では阪神に入団した。
98(平成10)年には横浜高校の松坂が登場、決勝戦で京都成章をノーヒットノーランに抑えるという偉業を成し遂げた。なお、松坂と対戦したPL学園のメンバーには、上重聡(現日本テレビアナウンサー)もいた。
06(平成18)年の決勝戦、早稲田実業対駒大苫小牧は引き分け再試合となり、斎藤と田中の熱戦が注目された。のち田中は同年のドラフトでイーグルスに、斎藤は早稲田大学進学を経て北海道ファイターズに入団した。
07(平成19)年の夏の大会では「がばい旋風」を巻き起こした佐賀北高校が大躍進、決勝の対広陵高校戦では副島が逆転満塁ホームランを放ち優勝を決めた。一方、この大会では「高校ビッグ3」と呼ばれた佐藤(仙台育英-スワローズ)、中田(大阪桐蔭-ファイターズ)、唐川(成田-マリーンズ)が注目された。ついに平成世代がドラフトに掛かる時代が到来していた。しかし大阪大会では大阪桐蔭を破った金光大阪が甲子園に出場している。
10(平成22)年大会では一二三を擁する東海大相模が神奈川県勢で夏の大会33年ぶりに出場するが、決勝では島袋を擁する沖縄代表興南に敗れた。一二三は同年のドラフト2位で阪神に入団した。
(上左)07(平成19)年佐賀北高校優勝の瞬間。
(上右)10(平成22)年神奈川県大会での横浜スタジアムにて、東海大相模優勝の瞬間。ちなみに対戦相手は横浜高校。選抜大会ならこのまま甲子園決勝でもおかしくない好カードだが、神奈川県大会と大阪府大会ではこういう対戦がしばしば見られる。
(下)対水城高校戦での一二三。東海大相模は甲子園でも準優勝と好成績を残した。

甲子園ボウル
戦後の47(昭和22)年、同志社大学ワイルドローバ-と慶應義塾大学ユニコーンズの定期戦開催をきっかけとして始まった甲子園ボウル(ボウルは半球状の器の意味、転じてアメフト会場の意味でも用いられる)は大学アメフト日本一決定戦と位置づけられ、高校野球と並ぶ甲子園の冬の風物詩として注目された。中でも日本大学フェニックスと関西学院大学ファイターズは強豪で知られ、ともに5連覇を達成するなど名勝負として記憶された。両校の力が衰えてきた80年代から90年代に入ると、京都大学ギャングスターズ、立命館大学パンサーズ、法政大学トマホークスが台頭し、21世紀初頭に立命パンサーズは3連覇を達成している。07(平成19)年大会は甲子園第1期改装工事中のため長居陸上競技場で行われ、日大フェニックス対関学ファイターズの古豪が18年ぶりに対決、関学ファイターズが優勝した。甲子園に会場を戻した09(平成21)年大会では、関西大学カイザースが法政トマホークスを破り、62年ぶり日本一に輝いた。翌2010(平成22)年大会では立命パンサーズが早稲田大学ビッグベアーズを破り、日本一を奪還した。
09(平成21)年10月に大阪ドームで行われた関大カイザース対立命パンサーズ戦。管理人は関大側(3塁側)に座っているので手前の白いユニが関大。この試合で関大カイザースは61年ぶり甲子園出場をほぼ決定的にした。
2011(平成23)年甲子園ボウル、日大フェニックス対関学ファイターズ戦の様子。赤いユニが日大。この対戦は甲子園ボウルの中でも最も多く行われているカードである

甲子園改装、新甲子園誕生
甲子園で有名だった鉄傘は戦争中の鉄材供出で撤去されたが、51(昭和26)年に銀傘が復活。84(昭和59)年には、球場の還暦と同時に手動回転式のバックスクリーンが電光掲示板に変更した。その後、細かな改修は行なわれているが、大規模な改装は開業以来行われていなかった。このような老朽化のため、阪神電鉄は阪神パーク跡地にドーム型新球場を建設する構想もあったらしい。
95(平成7)年の阪神大震災でスタンドの一部が損壊するなどの被害も出ており、早期の改修が必要となっていた。
そして改修計画が発表され、07年(平成19)10月より内野部分、08(平成20)年10月から外野部分が改装され、09(平成21)年に球場周辺を再整備、10(平成22)年選抜大会を前に工事が完了し、甲子園は観客動員数48,000人の球場に生まれ変わった。

かつて34(昭和9)年、甲子園の観客に見せられなかった当時の全日本代表に代わり、WBCで日本代表がアメリカ代表に勝つという栄光の瞬間を日本の甲子園球場で見てみたいと思うのは私だけだろうか。
バックネット裏にある「がんばろう!日本」の文字。以前はタイガース優勝の記録だったが、東日本大震災後張り替えられた。
MIDIデータ
「星屑のステージ」/ チェッカーズ
作詞:売野雅勇  / 作曲・編曲:芹澤廣明
データ制作:りさぴょん
【りさぴょんのお・へ・や】http://www5d.biglobe.ne.jp/~risapyon/
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