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ライオンズ球場とは?
埼玉県所沢市にあるライオンズの本拠地球場である。開場当初は屋外球場であり、 レフトスタンドに座るとライト方向に秩父山系が広がる景観の良い球場だった。しかし、97(平成9)年オフにドーム建設が始まり、99(平成11)年シーズンにドームとなった。 他のドーム球場と違い屋根とスタンドの間に外観が見えるようになっており(吹き抜け形式)、自然の空気も取り込めることから、空調設備はない。 そのため、日本で唯一場外弾の出るドーム球場の異名ももつ。
湿気の多い時期には霧が立ち込めることもあり、ファンの間からは、昼は薄暗く、夏は蒸し風呂状態になり、冬は凍てつく様に寒いなどクレームが噴出し、今では「最悪の球場」になってしまった。なんでも良くすれば良いものではないということを認識させる典型的パターンになってしまった。

既存のライオンズ球場に屋根を被せてできた半ドームである。ライオンズ球場時代は両翼95mと今となれば少し狭い球場だったが、97(平成9)年オフの改修でグラウンドが拡大した。フェンスの曲線が突然直線的に延びて、そこからまた曲線が始まっており誰が見ても「改修したんだな」と理解できる。
球場の壁はアルミ、屋根は東京ドームと同じテフロンで覆われている。空調設備がないため、春先や秋口は寒く、夏は横風で湿気が入ってくる上に、この湿気が屋根に遮られて逃げていかないため、「4万人入れる大サウナ」状態である。発汗がいい人だと水を飲めばすぐに汗が噴きだし、飲まなければ喉が渇く。二律背反とは正にこの事だと、妙に納得してしまう。(笑) 蝶やコガネムシが入ってくるのはご愛嬌だが、スズメバチまで入ってくるのは頂けない。「中途半端はイカン」という好例であろう。逆に冬場になると太陽が照り付けないため一層寒くなった。ナイターや雨の日などは防寒対策が必要になる。

その一方、現存するドーム球場の中で最も低コストで作られ、最も環境に配慮された球場として評価する者もいるが、ファンレベルでそういう評価をしているやつは見たこと無いが…。

05(平成17)年3月に貿易商社がネーミングライツを取得。 この会社は近年では通信事業にも進出している。 なお、駅名は未だに「西武球場前」のままだが駅名変更の際には国土交通省の認可が必要なため、現在に至っているようである。
当該会社はネーミングライツを継続する方針であったが、球団はこれを拒否したため、06(平成18)年12月31日をもって撤退した。代わって07(平成19)年1月1日から人材派遣会社がネーミングライツを取得した。
ところが、この人材派遣会社は「ろくに社員研修もせず頭数あわせの為だけに人員を派遣する『人数調整会社』」であり、クライアントとのトラブルも多く、「バッドウィル」などと陰口を叩かれている悪徳会社である。…まぁ、ここの社長って、バブルに浮かれたバカ女を大量発生させた「ジュリアナ東京」の社長だったような奴だからな。当然か…

…と、いうことを07年5月の加筆修正で追加しておいたのだが、まさかそれから1ヶ月もしないうちにこの会社が摘発されるとは思わなんだ…以前は村上被告人逆さづりのトップを作成したらその数日後にホントに村上被告人が逮捕されたことがあったが、当管理人のイヤな予感はよく当たるもんだ。
なお、社長の
折口雅博はかの悪名高き圧力団体・経団連の会員でもある(他のメンバーには「合併1リーグ推進論者」ことトヨタ社長の奥田、「全プロ野球ファンの敵」宮内が有名)が、本来日本社会をリードすべき経済の中心人物が集まる組織でありながら「球団数削減と1リーグ制推進」などという経済人としてあるまじき不見識が罷り通る団体なのだから、底が知れているというものだ。
なお、折口は05年に紺綬褒章を受章しているのだが、こんな奴に褒章を授与させられた天皇陛下も気の毒である…(栄典の授与は天皇による国事行為・憲法7条)。天皇陛下に恥をかかせた小泉自民公明連立内閣と、国民の共有財産たる介護保険を私物化した「規制改革民間開放推進会議」の政治的責任が問われてしかるべき問題である。


このトラブルのあと球団は直ちに人材派遣会社とのネーミングライツ剥奪を通告、その後は「命名権者の企業イメージが球団に飛び火する」のを恐れて同制度を活用していなかったが、15(平成27)年3月よりライオンズの系列企業が命名権を取得し、「西武プリンスドーム」と改称された。
Stadium Data
西武ドーム ライオンズ球場(97(平成9)年当時)
所在地 〒359-1153 埼玉県所沢市大字上山口2135番地 マップ
右翼 100.0m 95.0m
右中間 116.0m 113.7m
中堅 122.0m 120.0m
左中間 116.0m 113.7m
左翼 100.0m 95.0m
外野フェンス 3,2m-4,3m 1.8m
面積 13,890m2
フィールド面 内外野人工芝
照明塔 天井全周型、444灯 鉄塔6基
照度 投捕間:2,500lxs,内野:2,000lxs,外野:1,500lxs
観客動員数 3万5879人
Stadium History
前史-西武園開園と西武園球場開設
西武鉄道による東村山、所沢地区の整備は1950年代に始まる。50(昭和25)年の西武園ゆうえんち、西武園競輪場(開業当初は村山競輪。54(昭和29)年改称)の開業を核として、西武鉄道は東京都・埼玉県境一帯に一大リゾート開発を展開。これらはまとめて西武園と命名された。当時の大手私鉄は沿線に遊園地を展開することで集客増を図ろうとした。代表的なものに阪急電鉄の宝塚ファミリーランド、阪神電鉄の阪神パークなどがあるが、西武園もそんな沿線型リゾートの一種だったと言える。
更にこれに附属する形で63(昭和38)年には西武園球場が開業する。当時は小規模な球場で、主にアマチュア野球に使用され、プロ興行も2軍戦のみが当球場で開催された。

ところで、西武園にはその名もズバリ「西武園」という駅があるが、この駅名が登場したのは競輪場の開設とほぼ同時期であり、しかも当時の競輪場は村山競輪場と呼ばれていた。加えて、当時このあたり一帯は東村山文化園と呼ばれ、「西武園」の名が一般に使用されるようになったのは51(昭和26)年以降のことである(西武園ゆうえんちは当時既に開業していたが、西武園駅からは遠い)。
本来の中核施設より先に西武鉄道が「西武園」を名乗った理由は不明だが、いずれ名称変更されることを見込んで既成事実化させる狙いがあったのかもしれない。考えてみれば、西武グループ創業者の堤康次郎は「とてもマトモな企業家とは言えない」と評価されるように後継者の堤義明にも劣らぬ怪しげな人物であり、当サイトに記述するのも憚られる(理由は、未成年者が見るのに不適切な内容が含まれるため)厄介な事情を抱えた人物でもあったから、そのような謀略を持っていたとしても不思議ではなかろう。


西武球場開設、ライオンズ移転
78(昭和53)年、西武鉄道は西武園球場の改築に着手、それまでの小規模球場からプロ興行も可能な巨大球場に改築されることが発表される。表向きの理由は貸し球場としての建設だったが、当時平和台球場を本拠地としていたクラウンライター・ライオンズは経営に行き詰っており、早くも「西武鉄道はライオンズ買収を目論んでいるのではないか」という噂が囁かれ始めた。
案の定、建設途中の10月12日、国土計画はライオンズの買収を発表、球場名も「西武ライオンズ球場」と正に移転後の新本拠地として開業することを目指した命名がなされた。実は当時、堤は球団買収の意思はなく、福岡の隣県・山口県を地盤とする安倍晋太郎と岸信介がクラウンを買収するよう説得したという説がある(このあたりは青木一三の『ダイエー/オリックス球団買収の真相』に詳しい)。翌79(昭和54)年4月14日の開場では、いかにも政界に多くの黒い関係を持つ堤らしく福田赳夫が始球式を務めた。

当時は屋根空きであり、レフトスタンドに座るとライト方向の秩父山系が眼前に広がり、よくできた自然派の球場だった。
特に80年代から90年代中盤は応援歌の歌詞の中でも『緑の森に湧き上がる♪』というようにライオンズの黄金時代の舞台となった。 花火と秋山、清原、デストラーデのHR(特に秋山のバク転)を覚えているファンは多いだろう。
しかし、この一帯は内陸の狭山丘陵に位置し、人造湖(貯水池)の狭山湖、多摩湖があるためこの一帯は非常に雨に祟られやすい球場だった。

臨海ドーム構想、「疑惑のコールドゲーム」

90年代中盤頃、西武グループは突如「臨海副都心地区にドーム球場を建設し、ライオンズを埼玉から東京に移転する」という構想を発表した。ライオンズ球場は池袋から40分と都心からのアクセスか悪く、また周辺に貯水池があるために雨も多く、観客動員数が伸び悩んでいたことと日程調節が難しいことが背景にあった。新球場建設候補地は現在の臨海副都心地区で、当時東京都が計画していた「東京都市博」に始まる開発計画に乗っかる形だったといえる。この球場は「臨海ドーム」もしくは「お台場ドーム」などの仮称で呼ばれた。
ところが90年代中盤といえばバブル崩壊期であったために西武鉄道も業績が悪化、多額の建設費用が掛かる計画の抜本的見直しをせざるを得なくなる状況に陥る。更に追い討ちを掛けるように東京都市博が計画段階で中止(青島幸男都知事の最大にして唯一の功績でもある)され、臨海副都心開発計画自体が練り直しとなった。このような状況を受けて臨海ドーム計画は白紙撤回された。ライオンズ球場のドーム化にはこの臨海ドーム構想とその中止が多少影響している。
一方、もうひとつの説としては、森監督による「疑惑のコールドゲーム」が影響しているというものもある。これは詳細については明らかではないが、試合後半でライオンズが逆転されるピンチの際に雨が降り出し、森監督が審判団に要請して試合を打ち切らせ結果的に勝利ということにした、ということらしい。通常ならば試合打ち切りなるような大雨ではなかったことから、このような疑惑を持たれたということのようである。

97(平成9)年オフから第1期ドーム化工事がスタートした。 既存のドームのように、1から作るのではなく既存施設に後からドームの屋根を敷設するという異例の建設方式によって作られ、 98(平成10)年シーズンから西武ドームに改称。この年はグラウンド部分がまだ屋根で覆われていなかった。 そのため"ドーム"と名乗りながら、雨天で試合中止となったケースが何度かあった。 同年シーズン終了後、グラウンド部分の屋根取り付け工事が行われ、99(平成11)年からは完全ドーム化。 これにより雨天による試合中止はなくなったが、台風等があった場合、選手・観客の安全面を考慮しての試合中止はあり、 実際、04(平成16)年の日本シリーズ・ライオンズ対ドラゴンズの第4戦が台風の影響で中止、1日順延となっている 。ドーム球場での日本シリーズ試合中止はこの時が初めてだった。

ライオンズの興亡-広岡時代
49(昭和24)年末、西日本鉄道が創設した西鉄クリッパースは51(昭和26)年初頭、西日本パイレーツと合併。西鉄ライオンズが誕生した。西鉄は戦前期にも球団を保有していたが、戦後日本野球連盟から復帰が認められなかった(西鉄軍の解散が日本野球機構の活動停止時期より僅かに早かったため)ため、新たに球団を創設。福岡の平和台球場を本拠地として三原脩監督の下「南海・西鉄2強時代」を築いた。「ライオンズ」という愛称は佐賀県唐津市在住のファンが一般公募に応じて考案したものである。
しかし69(昭和44)年に発生したプロ野球最大の八百長事件にして冤罪事件こと「黒い霧事件」により人気が低下。主力選手からも見放され、西鉄は球団経営を放棄した。オーナー会議では、木本元敬オーナーが「球団経営を放棄したい。タダでもいいから誰かに引き取って欲しい。」と泣いて懇願したと伝えられる。
これを見かねた中村長芳ロッテオリオンズオーナーは自らロッテオーナー職を辞してまで球団を引き取り、株式会社福岡野球を設立。太平洋クラブ、次いでクラウンガスライターと提携してライオンズの灯を守り続ける。しかしいかんせん個人企業に多額の運営費を賄うのは無理な話であり、78(昭和53)年には経営に行き詰まることとなる。

これを見た堤義明は中村に球団の買収を打診。もともと西武グループは球団経営には関与しない方針だったが(戦前期の前期セネタースの運営に失敗していた事情もある)、中村と堤の共通の関係者に安倍晋太郎・岸信介という自民党の大物代議士がおり、これらの説得を受けて球団買収に乗り出すことになった。この時期、西武は所沢に一大リゾート開発を計画しており、その目玉として球団を据えたいという狙いもあった。
こうして福岡野球から西武グループの中核企業・国土計画(現・コクド)に経営が譲渡され、本拠地も福岡から埼玉へ移転することになった。なお、ここからホークスの福岡移転まで、実に10年の間九州にはプロ野球が存在しない時代が続く。

移転当時のライオンズは阪神田淵、ロッテ野村をトレードで獲得。更に球団の譲渡を見越してクラウン最後のドラフト会議で法政の江川を指名するなど、スター選手のかき集めに走る。しかし新規参入の常で戦力不足は否めず、82(昭和57)年の優勝まで最下位が2度、それ以外は81(昭和56)年前期以外はすべてBクラスという圧倒的な弱さだった。当時は近鉄・日ハムが全盛期で、阪急も一時の勢いは失ったものの未だ強豪であり、新生ライオンズが立ち入る隙はなかった。この当時放映されていたいしいひさいち氏原作のアニメ『おじゃまんが山田くん』の主題歌に登場する「夢を求めて今度こそ」というフレーズは、当時のライオンズの弱さを歌ったものである。

これを打ち破ったのがかつてヤクルトスワローズの初優勝を飾った広岡達朗監督である。広岡は選手の食生活や1日のタバコの本数など、私生活にまで渡る徹底した管理体制を敷き、82(昭和57)年に西武ライオンズとして初、西鉄以来19年ぶりの優勝を飾る。しかし黄金期初期の西武は松沼兄弟や東尾、渡辺、工藤を中心とする投手力のチームで、打撃は弱く、しかもロッテ落合、阪急ブーマー、南海門田の全盛期と重なり、87(昭和62)年に秋山が本塁打王を獲得するまで三冠に名を連ねる者すらいなかった。
これを一変させるのが86(昭和61)年の清原入団である。

森時代-AKD砲の誕生
85(昭和60)年、西武はパリーグ優勝を飾るものの日本シリーズで阪神に敗れ、広岡監督は退任。最終戦では長崎が初回から満塁弾を放ち西武を撃破。ライオンズ球場は吉田監督の胴上げ球場となった。後任には森ヘッドコーチが就任した。
85(昭和60)年の高校野球で活躍したPL学園の清原は巨人と相思相愛と伝えられたが、投手力の衰えを懸念した王監督は清原の盟友桑田を指名。しかし「あんたが勝手に惚れて勝手にフラれただけ。男なら見返せ」という母の説得により西武入団を決意し、公式戦初出場・南海戦でライオンズ球場レフトスタンドに打球を叩き込むとその後もホームランを連発し、新人王を獲得。当時は「全く新しいタイプの若い世代」の代表格ということで少年隊東山、横綱双羽黒とともに「新人類」などと呼ばれた(少年隊のメジャーデビューは85(昭和60)年、双羽黒の横綱昇進は86(昭和61)年であり、清原の登場とほぼ同時期である。現在でも清原と東山は親友)。
ライオンズ球場で巨人と対戦した87(昭和62)年日本シリーズ最終戦、清原はファースト守備上で号泣、工藤は「清原は涙で視界が乱れている。1塁方向には打たせない」と細心の注意を図ったピッチングを心がけたという。
森は秋山・清原・更に獲得したデストラーデの「AKD砲」を中核とした西武打線を整備、石毛・辻らの成長もあり、投打ともにバランスの取れたパリーグの強豪として君臨した。森が監督を務めた9年間でV逸は89(平成元)年のみ、うち日本シリーズ制覇は6回という圧倒的強さだった。
しかし89(平成元)年頃から森と堤の確執が芽生え始める。この年優勝を逃したことに不満を持った堤は森監督に対し、公衆の面前で「来年もやりたければどうぞ」と罵倒、多くの野球ファンから非難を浴びた。
92(平成4)年、タイガースとの接戦を乗り越えてセリーグを制したスワローズを破り自身6度目の日本一を達成、これが最後の日本一となった。一方、石毛、工藤、秋山、辻ら主力選手が次々とチームを去り、戦力が大幅に低下。94(平成6)年には巨人に破れ日本シリーズ2年連続敗北を喫し、森は監督を辞任する。
(上)2011(平成23)年6月12日交流戦での始球式は、ピッチャー渡辺久信、バッター真弓で行われた。85(昭和60)年以来実に26年ぶりに再戦が実現した。なおこの2人は、日本シリーズ最終戦で実際に対戦している。
(下)大阪ドームの打席に立つ清原。清原はライオンズ-ジャイアンツを経て晩年は合併球団に在籍した。

低迷期と新たなスターの誕生
後任は東尾修監督が就任するが、折りしも前年から台頭したイチローを擁するブルーウェーブが黄金期を迎え、2年連続V逸という結果に終わる。そして長らくライオンズを支えた清原がFA権行使で巨人に移籍。
一方、松井稼ら新たな世代が台頭、97(平成9)、98(平成10)年には久々の2連覇を達成する。99(平成11)年には甲子園で京都成章をノーヒットノーランに抑えた松坂が入団し、球界を代表するエースとして君臨した。
ライオンズはその後もコンスタントにAクラスを維持するものの、ファイターズ、ホークスの台頭が重なりBクラス落ちが2度と往年の勢いは失っている。

堤の有罪判決、球場大改装と新世代ライオンズ
ドーム化こそされたものの、ライオンズ球場の全体の整備が行われたわけではなく、特に球場内は坂道が多く、「バリアフリー対策が何もできていない」と批判が集まっている。晩年の仰木監督は肺がんのため球場の階段を自力で登ることすらできない状態だったという。
このような批判を受けて、07(平成19)年から球場では大改修工事が行われ、スコアボード、トイレ、スピーカーなどが新調され、エレベーターも設置された。また座席においてもフィールドシート、テラスシートが新設され、より快適な空間での観戦が可能になっている。09(平成21)年にはレフト3塁側をホーム応援席、ライト1塁側をビジター応援席とし、選手や観客にもより便利な球場へと生まれ変わった。
上が05(平成17)年、下が11(平成23)年のライオンズ球場。スコアボードはLED式の全面表示に改造され、芝生もより天然芝に近いものに張り替えられた。

また、堤のもと長らく隠蔽され続けていた西鉄以来のライオンズの歴史にもスポットが当てられ始めている。前身球団の歴史を隠蔽する体質はブルーウェーブの例が代表的だが、ライオンズはもっと悪質で、球団の公式見解では長らく「ライオンズは西武グループが創設した球団であり、西鉄の後継球団というのはあんたら(ファン)が勝手に言ってるだけ」という明らかに事実と異なる主張を繰り返していた。西鉄ライオンズOB会との交流も長年に渡り拒否し続けていた。

堤は合併騒動直後の05(平成17)年3月、有価証券報告書の虚偽記載とインサイダー取引という証券取引法違反容疑で逮捕。裁判では虚偽記載が実に40年に渡って行われていたという極めて悪質なものであったことが明らかにされ、堤被告人は懲役2年6月、罰金500万円の有罪判決を受けた。これにより堤は完全に失脚、球団への発言力も失った。この判決については「40年以上に渡って違法行為を続けてきた以上、「初犯」という理屈は通用しない」として、執行猶予付き判決ではなく実刑判決にすべきだったと批判されている。

その後、ライオンズではしばらくオーナー不在期間が続いたが07(平成19)年に後藤高志がオーナーに就任。西鉄時代の歴史の再評価も行われるようになり、夏場の「ライオンズクラシック」は今やライオンズ球場に欠かせない夏の風物詩となっている。球場にも西鉄時代の日本シリーズ制覇を記念するプレートが設置された。08(平成20)年から、球団名が「ライオンズ」から本拠地名を入れた「埼玉ライオンズ」に変更された(これでパリーグ球団の中で地名のない球団名は、大阪と神戸を足蹴にし球団を企業の私物とした合併球団のみとなった)。

近年のライオンズは堤と西武グループの私物から脱却し、埼玉と東京西部に密着した運営を展開している。そのような中でライオンズ球場も西関東の要としての役割を増しており、こうした姿勢は評価すべきである。
あとは、球場の価値を台無しにしているドームさえ撤去されれば、更にその役割は大きくなるだろう。
(左)球団事務所横の展示スペースには西鉄時代以来のユニが展示してある。これは太平洋クラブ時代のもの。
(右)球場にも日本一の記録が展示された。これは「西鉄奇跡の大逆転」当時の日本一を記念したもの。いずれにせよ、堤時代には考えられなかった素晴らしい進歩である。堤の失脚については素直に賞賛したい。次のターゲットは宮内村上である。
MIDIデータ
□■ 炎のたからもの ■□
     『ルパン三世・カリオストロの城』より
作曲:大野 雄二
JASRAC作品コード:077-5946-1
MIDIデータ作成:うーへい

このMIDIデータには著作権が存在します。
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JASRACホームページ
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