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福岡ドームとは?
93(平成5)年、日本2番目のドーム型多目的ホールとして開設した福岡ホークスの本拠地である。全体のデザインはローマのコロシアムをモチーフとしたとされている (なお、ローマのコロシアムはローマ皇帝が馬鹿な大衆に「パンとサーカス(即ち、日常生活と娯楽)」を与えるために建設したとされる。 この発想を引っくり返したのがイエスキリストの「人はパンのみにて生きるものにあらず」という教えである)
特筆すべきは日本唯一の開閉式天井を採用していることであろう。その素材にはロケットや航空機に使用されているチタンを採用、強度や耐食性に非常に優れている。20年近く百地の空に晒されたせいなのか、開業当初の銀色の屋根に色が付き始めて重厚感が更に増し、常勝ホークスの威厳と言うものを見せ付けられているような感がある。

開業当初には、天候に合わせて晴れの時は屋根空きで試合をするはずだったが、構造上の問題、騒音問題、海風による強風も常時開閉を妨げる一因であり、開ける場合にはビジターチームの同意がないと開けることができないと言う (岩鬼が「開けとけ!」と叫んだからといって開けられるものではないのである!)。だが、球場上空は風が吹いているのが当たり前。強風が問題だというのならば、千葉や甲子園はドーム化しなければならない筈である。こういうルールこそ「ムダ」というものであろう。 

球場としてはなかなか立派なものであるが、大阪球場を知る管理人としては何か違和感を覚える。

93(平成5)年に平和台球場に替わる新球場として完成した。その大きさは前本拠地の大阪球場・平和台球場はもちろんのこと、甲子園球場を凌ぐ大きさである。加えてパ・リーグ1の観客動員を誇り、公式戦は超満員。スタンドは360度すべてホークスファンで溢れかえり、さながら甲子園の阪神ファンを想像させるほどである。スタンドに目をやると2階席がなく観客席が視界を遮る事はないが、一方野手にとっては高さ6mものフェンスが聳え立ち『日本一HRの出難い球場』、『日本のグリーンモンスター』と称されるほどである。 
Stadium Data
所在地 〒810-0065 福岡市中央区地行浜2-2-2 マップ
右翼 100m
右中間 115.80m
中堅 122m
左中間 115.8m
左翼 100m
外野フェンス 5.8m
面積 13,500u
フィールド面 内外野人工芝
照明塔 528灯
照度 投捕間:2500lxs 内野:2000lxs 外野:2000lxs
観客動員数 35,157人
Stadium History
前史:平和台球場
唐人町から博多方面に一駅手前、大濠公園降りてすぐの福岡城址は、平和台球場跡として知られる。平和台球場は1948(昭和23)年、国民体育大会の野球会場として創設され、永らく西鉄・太平洋クラブ・クラウンライターライオンズの本拠地として使用された。稲尾・豊田・池永・中西太・仰木・真弓各選手もここで活躍している。子門真人氏の歌う「ぼくらの憧れライオンズ」にも「若い力が燃え上がる 意気だ嵐だ平和台」と歌われた場所である。
ライオンズが埼玉へ移転した後は永らく空き家となっていたが、この間他球団の主催試合が行われ、89(平成元)年からは福岡ホークスの仮本拠地となった。
平和台のプロ興行は92(平成4)年の福岡ホークス対バファローズ戦で停止され、翌93(平成5)年の国体会場となった後に閉鎖が決定した。これだけ早く閉鎖が決定したのは、古代の外交施設「鴻櫨館」発掘調査のためとされているが、周辺が裁判所合同庁舎や法務局の立ち並ぶ官庁街であり、その再開発のためという事もあるのだろうと思われる。現在は完全に撤去され、発掘調査が進められており、城門の手前に記念レリーフが置かれているのみである。
なお、城門の反対側、福岡県護国神社近くには、「ライオンズベースボールショップ」があり、西鉄ライオンズの復刻帽が販売されている。
ところで、子門真人氏といえば、93(平成5)年ごろにはホークスタウンのテーマソング「ホークスタウン物語」を歌っていたことを覚えている人も結構多いのではないだろうか。なお、子門氏の音楽活動についてはこの年を最後に報告されておらず、事実上この年をもって引退したようである。現在の詳細な消息は不明だが、敬虔なクリスチャンとしても有名なため、教会に勤められているようである。
(これらについてはその後の追跡調査で明らかになりました。なお、プライバシーの関係上、これ以上の情報についてはお答えできません。悪しからずご了承下さい。)

かつて中洲川端駅降りてすぐの場所には西鉄ライオンズOB、池永正明氏の経営するスナック「ドーベル」があったが、現在は高齢のため閉店している。池永氏は新人王、最多勝を獲得したこともあり、野村イーグルス監督も『プロ野球の男たち−野村克也の目』(朝日新聞社刊)で 「超A級」と絶賛した名選手であったが、あらぬ疑いをかけられ引退を余儀なくされた。 この嫌疑の背景には、九州市場拡大を狙っていた大手新聞社が、 ライバル会社で西鉄ライオンズに出資していた西日本新聞に打撃を与える目的があったとされている。 因みに、池永氏へのこの処分を推進したのは、当時のセリーグ会長で、後にコミッショナーとして日本シリーズ阪急対ヤクルトにおいてヤクルト寄りのミスジャッジを容認し、 江川騒動において巨人寄りの裁定を下して小林繁投手を犠牲にするなどの失態を繰り返した金子鋭である。 金子の殿堂入りは今もって認められていないが、当然であろう。
池永氏の名誉回復は、豊田・稲尾氏などが尽力してきたが、大手新聞社が強硬に反対し、なかなか実現しなかった。 しかし2005(平成17)年4月に実現され、全国のファンから多くの祝福が寄せられた 根来コミッショナー最大にして唯一の功績である。池永氏は今でも野球事情に詳しく、他選手との交流もおありのようである。 名誉回復直後には福岡ドームの始球式にも登場し、マスターズリーグ・福岡ドンタクスのピッチャーとして登板されることもある。 かつてほどではないにしても往年の投球が見られるのはファンにとってうれしいことである。
(上左)平和台球場跡記念プレート。
(上右)球場跡は芝生として整地されている。向こうに見えるのは鴻櫨館資料館。なお、僅かに残っていた外野スタンドも福岡県西方沖地震の影響で現在は取り壊され、球場跡一帯も発掘のためフェンスで覆われている。
(中)ライオンズベースボールショップと西鉄ライオンズの復刻版帽子。『どらン猫小鉄』に登場する西鉄親分の額の傷を知っている人も多いだろう。
(下)ドーベルのマッチとコースター。20は池永氏の現役時代の背番号。11(平成23)年現在、この背番号は野上亮磨が付けている。


ホークス移転とドーム建設
89(平成元)年、ライオンズの所沢移転後、10年ぶりにプロ野球チームが福岡の地に舞い戻ってきた。それは、西鉄黄金時代のライバルだったホークスだった。ホークスは73(昭和48)年の優勝以後Bクラス常連チームに転落。大阪市内圏に4球団がひしめき合う中で往年の勢いを無くしたホークスは、観客動員100万人を突破する事さえままならない状態。南海電鉄の労使交渉でもその運営費を本業に回せと槍玉に揚がるほどだった。88(昭和63)年4月、ホークスを愛してやまない川勝オーナーの死により身売り話が再燃。8月にダイエーが買収を決定した。

当初、本拠地は神戸を予定していたが、市民の熱意により福岡への移転が決定。嘗てライオンズが本拠地にしていた平和台球場を一時的に使用することになった。折しもバブル期絶頂の頃、当時の流通業界のトップを走っていたダイエーは、福岡市中央区の『アジア太平洋博覧会(よかとピア)』の跡地17ヘクタールに開閉式球場の“スポーツドーム”とレジャー施設や遊園地を含むファンタジードームを作るツインドーム計画を発表。この福岡ドームとその周辺の開発事業はダイエー本社の社運を賭けたビッグプロジェクトだった。

91(平成3)年4月に着工、地上7階建て、基礎工事から各種設備の施行まで関わった人数は12,000人に上った。翌年4月2日に開場、こけら落としは『パ・リーグ・トーナメント』のホークス対ブルーウェーブ戦だった。
しかし93(平成5)年シーズンは福岡ドーム主催試合60試合のうちホームランは僅か18本、更に投手陣も平和台時代の惨状が改善されないまま最下位に転落した。
(左)ツインドーム構想図。以前は福岡タワー1階のショッピングモールにあった。現在は福岡市立百道浜小学校に所蔵されている。
(右)シーホークホテル。船をイメージしたデザインだという。

ホークスの興亡−低迷期から黄金期へ
嘗て南海ホークスは「南海・西鉄2強時代」を築いたパリーグ1の強豪で、2リーグ分裂後の50(昭和25)〜66(昭和41)の17シーズンに渡って3位以下に落ちたことがないほどの圧倒的な強さを誇っていた。これは巨人ですらなしえなかったほどの偉業であると評価する意見もある。この当時の南海ホークスは400フィート打線や100万ドルの内野陣とも称されるほどの名選手集団であり、昭和4大監督の1人でもある鶴岡監督(4大監督のうち、巨人と全く関わりのない人物は鶴岡のみである)のもと巨人にも匹敵するほどの常勝球団だった。しかし78(昭和53)年に最下位に沈むと、万年Bクラス球団に成り下がってしまう。これは当時のオーナー企業だった南海電鉄の業績悪化とほぼ同時期であり、親会社の業績が子会社の球団にも及んでいたことを意味する。
その後、南海電鉄の興味が関西新空港計画に伴うなんば再開発の方に移ると、次第に球団運営への興味を失うことになる。何より、当時大阪球場のあったなんば駅周辺は一等地でもあり、球団の保有は再開発にとって大きな障害となっていった。

南海電鉄とダイエーは88(昭和63)年8月に球団の譲渡で合意。元号の変わった翌89(平成元)年、かつての宿敵だった西鉄ライオンズの旧本拠地、平和台球場を本拠地として福岡ホークスとして新たなスタートを切ることになる。
1年目の89(平成元)年はライオンズ、バファローズ、更に同時期に阪急ブレーブスから変わったブレーブスと互角に争い、4位に浮上して一定の成果を残したものの、翌90(平成2)年には田淵監督のもと最下位に沈む。その後も万年Bクラスの体質は変わらず、ドラフトで元木を指名するなどの話題を振りまくのが精一杯の状態だった。
それは福岡ドームに移転した後も変わらず、山本和範の突然の解雇を経て、ついに96(平成8)年5月9日日生球場での対バファローズ戦、あまりの不甲斐ない試合展開に激怒したホークスファンが試合終了後選手の乗っていたバスを取り囲み、生卵をぶつける「日生生卵事件」が発生した(管理人が当時の事情を知る人物に聞いたところでは、取り囲んでいたのは殆どが南海時代からのオールドファンだったという)。これは選手にとっても非常にショッキングな出来事だったらしく、村松は10(平成22)年の引退会見で「あの(生卵事件の)悔しさを胸にここまでやってきた」と述べている。
大阪ドームに展示された大阪球場の看板と南海ホークス時代のユニフォームを着る松中。この日は7回表にも「南海ホークス賛歌」が演奏された。

「世界の王」監督就任
94(平成6)年末、世界のホームラン王こと王貞治が監督就任。また球団も同年から導入されたFA制度を最大限活用し、ライオンズから工藤、石毛を獲得する。ホークスが主にライオンズ選手の獲得を目指したのは、当時まだ福岡にはライオンズファンが多く、それらをごっそり頂こうという狙いがあった。一方のライオンズはFA制度自体に否定的な立場を取っていたため、選手がFA宣言をしてしまうと引き止められないという事情があった。
これにより戦力は大幅にアップしたものの、成績は一向に上向かず、前述の生卵事件に発展する。実はこの当時、王と選手との間には深い溝があり、お世辞にも連絡がうまくいっているとはいえない状態だった。
この状況を打破したのは、前監督で球団社長の根本陸夫だった。根本は選手に対し「王さんといえども、もとはラーメン屋の息子だ。お前たち選手と何も変わらないただの人間だ」と説得。これを機に王と選手との関係は急速に回復されてゆく。

なお、根本は元ライオンズスカウト部長でもあり、清原・桑田の奪い合いでは王を陥れ清原指名を回避させたとの説がある。この説の真偽は定かではないが、少なくとも清原の奪い合いで大きな役割を果たしたのは確実と見られている。その人物が後に王を救うことになったのは不思議な運命の巡り会わせと言えよう。

黄金時代の到来
長く低迷を続けたホークスだったが、98(平成10)年にはBWと同率の3位に滑り込みAクラス入り。実に77(昭和52)年以来21年ぶりにAクラスに復帰した。そして翌99(平成11)年、秋山・工藤らライオンズOBの活躍により福岡ホークスとして初、南海ホークス以来26年ぶりにリーグ優勝を飾る。続く日本シリーズでも星野率いるドラゴンズを破り、日本一となった。
翌年にもリーグ優勝するが、長島率いるジャイアンツに破れシリーズ2連覇はならなかった。
その後、2年のV逸を経て03(平成15)年優勝、日本シリーズでは阪神タイガースと7戦全戦を戦いきるという熱戦を繰り広げ、4勝3敗で日本一をもぎ取る。この2年の間にホークスの主力はライオンズOBから90年代中盤に入団した生え抜き選手へと世代交代が進んでいた。02(平成14)年限りで秋山が引退。松中・小久保・井口・城島の100打点カルテットや川崎などの生え抜き選手がチームの「顔」として活躍する時代へと大きく転換していった。

高塚の横暴・強制わいせつ罪による逮捕、そして合併騒動の中で
一方、黄金時代の裏でホークスの運営は混迷を極める。90年代中盤のバブル崩壊以降、オーナーのダイエー本社の業績が急速に悪化。更に追い討ちを掛けるように阪神淡路大震災によりダイエー本社の中枢を置く神戸市が被災し、ダイエー本社は経営に行き詰まる。その中で球団社長・高塚猛は専横を極め、工藤・小久保を事実上巨人へ追放するという暴挙に出る。高塚がドームのVIPルームに愛人を連れ込んだことについて「公私混同」と至極全うな批判をした小久保に対し高塚が激怒、小久保は巨人へ無償トレードされることになった。松中はこれに抗議し、03(平成15)年の優勝記念旅行をボイコットする可能性さえ示唆した。村松のBWへの移籍も、表向きは天然芝球場に憧れての移籍だったが、真相は高塚への不信が主な理由である。
その後、
高塚はダイエーの女性社員に対する強制わいせつ罪という情けない犯罪容疑で逮捕され、福岡地裁で懲役3年の有罪判決を受け完全に失脚、福岡からも追われ11(平成23)年現在は盛岡に移り住んでいるという。

合併騒動後、福岡ドーム・シーホークホテルリゾートは米系投資会社コロニーキャピタル社に売却された。本社は球団もコロニー社に売却するつもりであったようだが、野球協約により外資系資本が球団を保有することが禁止されていること、 更に当時の巨人オーナー渡辺の「ハゲタカファンド発言」があったことを受けて頓挫した。その後、宮内・堤の「渡辺の2大忠犬」により 「千葉マリーンズとの合併」が画策されたが、世論と選手会が合併に反対し、阪神野崎社長・広島松田オーナーがこれに同調する動きを見せ、 更に渡辺・堤が相次いで失脚したことも重なり実現しなかった。

結局、球団の経営権はダイエー本社の産業再生機構入りを受けてソフトバンクに委譲されることで決着し、 これをもってダイエー本社は「3点セット」経営から完全に撤退した。 なお、シーホークホテルの経営は日本航空、次いでヒルトンホテルが引き継ぎ、福岡ドーム命名権はYAHOO!が買収し現在に至っている。
(左)福岡裁判所合同庁舎。ここで高塚は有罪判決を受けた。
(右)「FUKUOKA」より大きな「YAHOO!」の文字。以前はGS神戸にも同じような字体のロゴが貼られていた。

合併騒動後
05(平成17)年以降、球団の運営はソフトバンクに移り、パリーグの中では最も安定した経営体制を確立することに成功した。また、チームカラーやロゴタイプなどは変更されたものの、引き続き「福岡ホークス」の名を使用し、本拠地移転もなかったことから、「最も理想的な経営譲渡」と賞賛された。07(平成19)年には小久保が巨人から復帰、08(平成20)年には秋山が監督に就任するなど、ダイエー時代のOBを尊重する姿勢も貫いている。
一方、チームはレギュラーシーズン1位に何度も輝きながら、03(平成15)年以降日本シリーズへの出場はなく、プレーオフ制度最大の犠牲者ともなっている。

座席、フィールド面に目をやっても東京ドームの二番煎じといった趣が強く、野球を観るにはグラウンドまでの距離が遠すぎるなど、マイナス面も多い。更に観客席の数は、西武ドームを除く5大ドームの中では着席定員数が最も少ないドームであり、フィールドシートも着席数拡大のために増設したというのが真相である。
以上の点から考えてもこれ以上の伸びしろがあるとは思えない。ファンの中にはただの倉庫という声もあるほどだ。しかし、日本初の開閉式ドームを採用したことにより未だに開閉式のドームを作るべきだと言う意見は仙台などでも度々聞かれた。そう考えると福岡ドームの残した功績は大きいものかもしれない。
MIDIデータ
「Voyage」/ 浜崎あゆみ
作詞:浜崎あゆみ  / 作曲:CREA,D・A・I / 編曲:島健
データ制作:たかし
【たかさんのMusic Box】http://www.geocities.jp/takasanmusicbox/
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